2.異変
テルパドールを出発したリュカたちは再び船に戻り、東に進路をとる。
何日か東に航走るとその水平線にうっすらと雪をかぶった山脈が見えてくる。「リュカ、見えてきたよ。グランバニア山脈」
船長の話ではテルパドールの東にも大陸があり、グランバニアへの道が続いているとの事だった。ただ、その道と言うのは険しい山道でその山を越えた 向こう側にグランバニアは存在しているとの事だった。この世界は内海と外海に別れていて、内海はビスタの港やポートセルミ、テルパドール北面などが面 していて、外海はテルパドール南面やグランバニアと言った国や地域が面していた。内海からグランバニアを目指すにはいま航走っているルートから山脈越 えをする以外に方法はなかった。
山脈の入り口にあると言う「ネッドの宿屋」近くまで船で行き、宿屋を起点として山脈越えをするのが一般的だと船長は言う。リュカたちも例外ではな く、険しいという山脈を越える方法をとることにしていた。「随分と高い山ですね。世界の屋根と言われる山脈だけのことはあります」
遠くの海岸線を双眼鏡で見つめるビアンカの横に立ったリュカは、ビアンカから双眼鏡を受け取りその山脈をみる。別名世界の屋根と呼ばれているグラ ンバニア山脈。想像を絶する高さながら、人々は多くこの道を利用している。そしてリュカたちには絶対に超えなければならない理由があった。
ひたすら東進を続けてたどり着いた場所には、ほぼ断崖絶壁とも呼べる山の壁面があり、その麓に大木を利用して作られたネッドの宿屋があった。
「今日はここでお世話になって、明日から山脈越えをしよう」
リュカがビアンカ以下、仲間たちに告げる。
馬車はネッドの宿屋の近くに停めて野営をしてもらう。リュカとビアンカはネッドの宿屋に入り、情報収集を始める。とは言え、旅人は多いものの、グラ ンバニア山脈を実際に越える人は少なかった。ネッドの宿屋のオーナーたちにも話を聞いたりしたが、とにかく険しく、魔物も容赦ないということで、だだ 物珍しさで登るのならば止めたほうが良いと言われた。
翌朝、リュカとビアンカは意気込んで山越えを決行するが、右に左に曲がりくねる山道に現在地を見失ったり、魔物たちの襲撃に苦戦したりと思うように は進めない。そしてまだ山の入り口あたりで一日が過ぎてしまうことが何日か過ぎる。その間はネッドの宿屋を基点にして、日々経験値をあげるために戦闘 を繰り返していた。中でも苦戦を強いられるのはデットエンペラーたちで、その雷の杖の威力はいまのリュカたちにとっては大打撃を被った。マーリン曰 く、昔この世界でも強国であったグランバニアを訪れる中には、別の国の王たちが直々に馳せ参じる者も居て、しかし山越えが出来なかったものたちがこう してデッドエンペラーに、護衛の衛兵は死神兵になっているのだという。それ以外にも連続してベギラマを見舞ってくるまほうじじいや蛇とこうもりが融合 した魔物のリンドブルム、ドラゴンの子と思われるドラゴンマッドなどがリュカたちを襲ってきていた。「ビアンカ姉さま、大丈夫ですか?」
そうしてネッドの宿屋近辺での経験値上げをしている最中、時々ビアンカが調子を崩したりしていた。本人は疲れが出ている程度だと言っていたが、あ まりに頻繁なのでリュカは心配していた。そのため、グランバニア山脈の山越えを少し見送っている部分もあった。
「大丈夫だよ、リュカ。それよりそろそろ山越えできるようになったんじゃない?ピエールやリンクスも十分に強くなっていると思うしね」
二週間ほどネッドの宿屋で過ごしていたある日、ビアンカがこう言った。調子の悪い日は続いて出ているものの、ビアンカ自身もあまり気にしていない 様子だったので、リュカは山越えに挑むことにする。
グランバニア山脈にはその尾根の頂上付近にチゾットと言う村があると言う。まずはそこまで登ることを目的に全員が万全の体制を整えて山越えに挑む。 その山道は入り口ですでにうねっている状態だったが、山を登ると更にうねりは増してまっすぐ歩くことがなくなってしまったほどだった。暫くは低い山肌 に半ば無理やり作られた道を歩いていたが、途中からは山肌に穴を穿ち中を洞窟を作って道が出来ていた。洞窟の道は複雑に入り組んでいて、先ほど通った 道を上から交差したりつり橋で通り過ぎたりしていた。
チゾットに付く頃には皆、満身創痍になっていて村にはぎりぎりの体力で駆け込むほどだった。「なんとか着いたね」
ビアンカが少しよろめきながら村の入り口に何とか滑り込む。
「ピエール、大丈夫?…馬車のほうは村の中に入れるけど・・・毎回悪いね、馬車内でゆっくり休んで」
リュカが申し訳なさそうに言う。
「いえ、我らが姿を見せては村の方々に迷惑がかかるでしょう。ご心配ありがたく思います」
その言葉にピエールが丁寧に答えた。
結婚からピエールは少し態度が変わったようにリュカは感じていた。そのことでマーリンに相談したりもしていたが、マーリンは放っておけば良いとだけ しか言わなかった。リュカなりに答えを見つけてはいたが、なかなかそのことで話をする機会はなく、今までそのままになってしまっていた。
宿に入ったリュカとビアンカはすぐに宿泊の手配を取る。そしてビアンカにゆっくりと休むようにリュカは言った。暫く横になっていたビアンカだったが 疲れが出てきているのか、そのまま眠ってしまった。
リュカは村外れに止めてある馬車に来る。中ではいつものように仲間たちが窮屈ながら自由に休んでいた。「ピエール、ちょっと良いかな?」
馬車の端で一人考え込んでいるピエールにリュカが声をかける。ピエールの方もいつかはこの日が来るかと思っていたようで、驚きの様子を示したもの の、とくに変な態度を取ることは無かった。
「最近、様子がおかしいけど…ビアンカ姉さまの所為?…いや、それは適切じゃないねきっと。わたしの所為と言うべきなのかな?」
沈黙の時間が流れると思っていたピエールはお見通しのリュカに今度は驚いた。その様子を見てリュカは少し淋しそうな顔をした。
「まぁ、魔物だってマスターに感情を抱くことはあると思うし、そう感じるのはおかしいことではないと思う。だけど…ごめん、わたしはあくまで、みん なのマスターで居たい。いや、主従は示す必要は無いか。戦友、そう言い換えても良い。ピエールだって知っているでしょう?わたしの本当の姿のこと」
その言葉にピエールは少し俯く。
「知っては居ます。ですが、それがしはリュカ様のことを考えるようになってしまっているのです。ヘンリー殿やマリア殿、ビアンカ殿はリュカ様にいつ も近くで接しられます」
「それが羨ましいの?」
歯切れが悪く言葉をつなぐピエールだったが、言葉の途中でリュカがそれを止める。ピエールも図星だったようで、リュカの言葉に息を飲んだ。
「わたしはあくまで魔物使い。そしてピエールはここの仲間たちの中では一番の作戦参謀。そのピエールが機能しなくなっちゃうと困るよ」
自分の立場を説明するリュカに、それは分かっていると言いたそうな仕草を見せるピエール。それをみてリュカも切なそうに笑って呟いた。
「…きちんと言わないわたしがいけないんだろうね。ピエール、もしこのままの状態が続くのならば、あなたは要らない。自分で考えて、わたしが戦友を 必要としていること、自分が戦友になりきっていないことを考えて。私たちは所詮、人間と魔物で越えられない壁があるんだ。慕ってくれるのはありがた い。それが恋愛感情でも構わない。だけど動けなくなるのなら足手まといだから」
まっすぐ鉄仮面で覆われているピエールの瞳を見つめてリュカは一言の重さをこらえて呟いた。今までリュカ自身がここまでのことを言ったことはな かった。ピエールもリュカがどんな思いでそれを言っているかが分からないわけではなかった。いまの思いとリュカの言葉、どちらをとるかはピエールに委 ねられる。
そう言ってリュカは馬車を後にした。
馬車の中では、その話を聞いていたマーリンを初めとした仲間たちがピエールの周りに集まってくる。特にそのピエールの様子に驚いていたのはコドラ ンとホイミンだった。もともとは同じマスターについて、そのマスターの従者として一緒だった三人は、魔物使いと魔物の関係をここにいる仲間の中では一 番知っているはずだった。
「笑いたくば笑っていただいて結構」
心配しているコドランとホイミンにピエールはそう言うが誰も笑う様子はなかった。
「笑うものなどおるものか。しかし…かといって主に思いを寄せるのは間違いじゃぞ」
マーリンは以前のように、このことについては厳しい言葉を投げかける。マーリンは付いてきたことで、自分の中で決めたことがあるようで、それにピ エール自身は引っかかっているようだった。
「しかし・・・」
「リュカ殿は確かにすばらしい方ですし、ついていくのに後悔などさせぬほどの方。思いを抱くのは仕方ないかも知れません。が、私もマーリン殿と同じ で、マスターをどんなに思ってもそれで自滅してしまうのは問題だと思います」
中途半端に反論しようとするピエールにメッキーが答えた。マーリンとメッキーの言葉にリンクスやコドラン、ホイミンが同意する。
そんな中、同情心を持つのはブラウンだった。だが、ブラウンもその一線を越えることはよしとはしていないようで、とくに言葉を発したりはしなかった が、ピエールをポンポンと叩きながら、それを諭していた。「それがしは…分かっているつもりでも、どうしてもリュカ様が気になってしまうのです」
「だったら居なくなってもらいたい」
静かに言うピエールの言葉にメッキーの声が通る。だがそれはメッキーの意思の言葉ではなかった。
「スラリン殿はそう言っておられる。私も同意見です。リュカ殿にあれだけの信頼を得ているのですから、それで十分と感じることは出来ませぬか?」
厳しい口調でメッキーがピエールに攻め寄る。だがピエールは俯いたまま何も言わずに居た。
「…まぁ、ゆっくり考えるのも良いじゃろうが…マスターが感じてしまうほど動きが悪くなっているのは問題じゃぞ。リュカ殿だからと言うのはあくまで 詭弁じゃ。何故付いてきているのか、よく考えるのじゃな」
マーリンの言うことは厳しいがその通りだった。
「それがしはどうしたらよいものか・・・」
頭を抱えてピエールが考え込む。マーリン以外の皆がピエールについていてくれた。そんななか、ブラウンがトコトコと馬車の端の方に行くと、そこか らワインの入った瓶を取り出し、馬車内で使っているカップに注いだ。
「ブラウン殿、いつのまに・・・?」
メッキーが少し驚いた様子で言うと、ブラウンは笑って気にするなと言っているようだった。
そのカップをブラウンはピエールに差し出した。「…酒を飲んで忘れろと?」
悪い方に考えがちなこんなときには、あまり酒はよくない。返って悪い方に考えを持って行ってしまいがちだからだった。が、ブラウンはピエールの言 葉を否定しながら差し出したカップは引こうとはしなかった。
「え?素直になれと・・・?」
カップをずっと差し出したままで、ブラウンは目で語りかけてくる。素直になれ、誰もがそれを否定する中でブラウンはそれを認めて気持ちを素直に認 めろと言うのだった。
「素直と言うのは無理な話です。好きな気持ちを認めてそのまま接するなど、出来ていれば苦労はしません」
否定的で考えがループしてしまっているピエールの様子をじっと見ながら、ブラウンは尚も瞳で訴えた。
「好きなままで、その気持ち以上に仕えれば・・・ですか」
「…そうですな、私などは正直言えば、その凛とした戦う姿に一目惚れをしたようなものと言っても過言ではないですが」
そう言って今まで気持ちを語らなかったメッキーがカミングアウトする。その言葉を聞いてピエールがメッキーのほうを見る。
「ただ、それが恋愛感情にはならなかっただけのこと。それにリュカ殿のそばにいられるならば、今までの仲間を捨ててでもリュカ殿を守りたいと思い、 こうして付いてきています」
そんなメッキーの言葉にブラウンもコクコクと頷きながら同意する。
「隣にいられる・・・?」
「ビアンカ殿が居るからと言っても、戦闘までビアンカ殿に期待してはおりますまい。逆に出てきてしまうのを抑えたいとさえ思っているかも知れませ ぬ。そのとき、リュカ殿の隣に立てるのは我らしかおりませぬ。その中でも作戦参謀の地位を指名しているリュカ殿のピエール殿への思いは、強いものだと 思います」
ビアンカが現れたことで感情が狂い始めたピエール。余りに歯痒い感情が出てきてしまってビアンカを見ることを忘れていたと言っても、それは間違い ではなかった。メッキーの言うように、ビアンカが率先して戦闘に出ることはリュカ自身も心配事が増えるのは事実だった。
「さて。お主はリュカ殿を泣かせて、そんな自分を許せるのか?」
話の輪に入らないで居たマーリンが少し離れたところから声を出した。
「泣かせる・・・?」
「そうじゃ、お主の前では泣いたりしないが、一人のときは泣いておるかも知れないのぅ。それにビアンカ殿に何かあれば、やはり泣かれるであろう。 知っておるか?わしらが傷ついたときでも、怪我によってはリュカ殿はいつも泣いておられるのじゃぞ?」
いつそんな姿を見たかは知らない。だがマーリンの言葉は妙に説得力がある。
「素直になれ、と言うのは思いもそうじゃがなぜ自分がいまここにいるか、リュカ殿を守るのかに素直になることも必要なんじゃ。人間は人間が守るのが 普通だと思うのならばそれでかまわん。が、少なくともわしはそこいらの人間よりは呪文に長けておる。じゃから後衛から呪文で援護しておる。そうするこ とで、リュカ殿をお守りしておるのじゃ。…自分が泣かぬようにな」
訴えかけるようにマーリンは語る。その言葉にブラウンが同意した。そのブラウンはまだ、ワインの入ったカップを差し出し続けていてくれた。
「叶わぬと分かったのならば、どうやって近くに置いてもらうかを考えれば良いだけじゃ。そのうち、嫌でも離れることになるかも知れんしの。お主は リュカ殿が泣いて悔しくは無いのか?」
年長者の言葉は重たくも納得の行くものだった。ピエールは自分の出来ることでリュカが喜ぶことを考える。ビアンカのように心を満たすことは出来な くても、剣と呪文でサポートしたりは出来るし、危うくなったリュカとビアンカを守り、そのことでリュカが笑顔を作るのならばそれでも良いかと思えてき た。
「…辛気臭い顔はよせ、ですか。いきなり納得とは行きませぬが…リュカ様が泣くのをそれがしは我慢できないのは確かです。マーリン殿の言うように、 それがしが出来ることでリュカ様をお助けして、隣が無理ならばそばに置いていただくしかありませんな」
ブラウンが差し出すカップの先にある可愛く小さな瞳から、ブラウンはピエールに語ってきた。
「恋愛感情は私には分かりません。ですが…一緒に居たいと思うからともに居る。それだけで理由は十分です」
ブラウンの言葉にメッキーも賛成してそう言った。
「人間の好きと魔物の好きは違うかも知れんしの。全て自分の物差しで話を進めとると結局は破滅を招く」
マーリンもそう言って、カップを手に呟いた。
ピエールはブラウンからカップを受け取った。そして中のワインを一気に飲み干す。「それがしはリュカ殿にその心の強さを魅せられました。それがしの中途半端な思いを正して、話を聞き供に付くことを了承してくれました。そこがそれ がしの好きになった部分」
「なんじゃ、優柔不断じゃったんか、元から」
酒を口にして少しだけ勢いを取り戻したピエールが言う。
元のマスターが殺されて、脅されやむを得ず悪事に手を染めていた時にリュカに出会う。ピエールはその中途半端な気持ちを指摘された。本当の意味で仕 えるのは誰なのかを判断しろと。元のマスターについていたのは自分がマスターを守りたいから。リュカに出会うことで今度はリュカを守りたいと思った。 そしてリュカを狙う魔物を何とかして追い払いたいと思っていた。
ピエールは人間臭さを知り、そして想いを寄せていた。それは魔物には叶わないものだと言うのは昔から知っていたはずだった。それを忘れた振りをして 拗ねていただけなのかも知れない。そんな感情が今は占めていた。「・・・本当は悔しかっただけかも知れませんな。リュカ様が誰かに取られたような気がして」
溜息をついてピエールは呟いた。それを見て、スラリンがピエールの仮面の部分にアタックした。
「いたた・・・何を・・・?」
そのスラリンはブラウンと同じように何かを訴えていた。
「誰にも取られていないと。マスターはリュカ様だけだと・・・。そうですな。それがしのマスターはリュカ様ただ一人です。好きになった感情はそのま までも、これからはリュカ様の気持ちに行動でお答えしましょう」
少し元気を取り戻したピエールの持つカップにワインが再び注がれる。それを注いでいたのはマーリンだった。ワインを注がれたカップをマーリンと合 わせると、ピエールはまた一気に飲み干す。
「やっとそこに辿り着いたか。まったく世話が焼けるのう」
カップを口に持って行ってマーリンはぼやいた。
「ホントに・・・まったく」
馬車の外からそんな声がする。馬車内の全員が驚いた顔を見せた。
「よろしく頼むよ、ピエール、みんな」
声はそこまで言って気配と共に消えた。その声の主が誰かは一目瞭然だったが、皆特に駆け出したりもせずに声に対してそれぞれがそれぞれの方法で答 えていた。
馬車で話が進んでいる間、ビアンカは宿のベッドで横になって、リュカが戻ったころには完全に眠っていた。チゾットまでの道のりのさなかでビアンカ はやはり、時々調子を崩していた。休むにしても十分な場所が確保できないため、山道の後半は馬車の中で休んでいることが多くなった。そしてチゾットに 着くと疲れが出たのかベッドに横になっていたのだった。
夕方になってビアンカは起き出したが顔色はあまりよくは無かった。「ビアンカ姉さま、ホントに疲れですか・・・?」
さすがのリュカも調子の悪さを見ているとそれが単なる疲れだけではないと感じざるを得なかった。現に数時間でも寝ていたビアンカの顔色はまだ、蒼 白と言っても過言ではないほど赤みを失っていた。
「疲れだと思うんだけど…そんなに顔色良くない?」
リュカの心配にビアンカも自信をなくしていた。場合によっては数日休んでから出発することに決め、この日は夕食をとって早々に寝ることにする。
夕食が終わり、寝る支度をしていたときだった。周りは暗くなり、ランプの明かりだけで過ごしていたが、その明かりの下でもビアンカの顔色は良くなる どころか返って悪化しているようにも見えた。ガクンと膝から力を失いビアンカは倒れこむが、床に四つんばいになって倒れるのを食い止める。立て続けに 気持ちの悪さがビアンカを襲う。暫くはぜぃぜぃと肩で息をしていたが、それももたなくなり、ビアンカはよろよろと外に出て、夕食で食べたものを全て吐 き出してしまった。「ビアンカ姉さまっ!!」
駆けつけたリュカが慌ててビアンカに手を貸す。それでも気持ちの悪さは引かないようで、蒼白な顔を少し歪めてビアンカは肩で息をしてなんとか落ち 着かせようとしていた。
そんな二人をチゾットの人々が心配そうに見つめていた。「少し落ち着かせてからベッドへ運びましょう」
神父と宿屋の主人がリュカにそう声をかけてくれた。少しずつ息をするのが楽になったようで、肩で息をしていたのはほんの数分で落ち着いた。ベッド に運ばれてビアンカは力なく横になった。
「…ただの疲れではないかも知れませんな」
神父がそう言ってビアンカの額に手を当てる。だがそれでも首を傾げて単に風邪でも無いと言う判断をする。ビアンカの症状に対して専門ではない神父 も少し困った顔をしていた。
部屋の明かりを落として、リュカはビアンカのベッドの横で転寝を始めていた。ビアンカも落ち着いたのか寝息を立てていたが、明かりの無い部屋でもビ アンカの顔色は悪いように見えた。
髪をそっと撫でられてリュカは目を覚ました。見ると、ビアンカが膝枕をしてくれていた。
「あっ・・・ごめん、起こしちゃった?」
見上げたところにあるビアンカの顔はまだ少し赤みが足りない。それでも心配かけないようにしているのか、ビアンカは努めて笑顔を作ってリュカに接 してくれているようだった。
「大丈夫ですよ、姉さま。それより、体調はどうですか?」
気持ちよさを感じながら、リュカはビアンカに頭を預けたままで訊ねた。
「うん、昨日よりは良いよ。心配かけてごめんね、リュカ」
そう言って照れ隠しのようにビアンカは頬を人差し指でコリコリと掻いてみせる。そんな仕草が出来る余裕は出てきたのかと感じさせる程度ではあっ た。
「グランバニアに着けば、もう少し状態を調べられると思うので急ぎましょう。でも…ビアンカ姉さまはまだ完全ではないようなので、馬車で待機してく ださいね?」
最善の方法はビアンカを無理に動かさないことだった。リュカ自身このような症状になったことは無く、心当たりといえるような症状になったことは無 い。リュカも原因が分からず、どうして良いか分からない状態だった。
チゾットで一通り武器・防具を調え、グランバニア側の山道を下り始める。
下り道とは言っても、それは登ってきた道と同じように急坂で曲がりくねるものが多かった。また、場所によっては断崖にわずかな足場を見つけて降りる ところや、場合によっては飛び降りなくては行けない場所などもあったりした。途中、グランバニアに抜けようとしている商人などにも会ったりしたが、そ の商人は迷ってしまっていて具体的にどの方向が正解のルートかは分からなくなっていた。
馬車の中ではリンクスとスラリン、ホイミンにビアンカを任せ状況を見守る。外ではリュカ、ピエール、コドラン、ブラウンが先陣を切り、後方からマー リンとメッキーが支援していた。下り道の魔物も容赦なかったが、ビアンカの状況が思わしくないため、泣き言を言っている場合ではなかった。
随分山肌を下ってきて、すぐ下には整備された道が見える位置まで来ていた。洞窟内から階段を下りて、その道に差し掛かる階まで来たとき、道を阻む者 が居た。「貴様ら、何モンだ?ここから先は聖なるグランバニア、魔物を連れ歩くようなヤツはおいらが退治してくれる!」
それは下り道でも随分相手をした、ミニデーモンだった。フォーク型の槍を手に、リュカ一行に立ち向かってくる。
「わたしたちはそのグランバニアに用事があるんです、通していただけないのでしたら力づくでも」
一歩前に出たリュカが剣を手に、ミニデーモンに突きつけた。
「いまはもう、王はおろかマーサ様さえもいない。魔物の心を変えようというのならば意味が無い」
ミニデーモンが槍を構えてリュカに呟く。
「マーサって・・・誰?」
馬車の中に居たビアンカがその声を聞いて顔を出す。その様子にも動じる様子もなく、ミニデーモンはリュカの剣の出方を伺っていた。
「…マーサはわたしの母です」
ビアンカにリュカが静かに答える。その言葉を聞いてミニデーモンは自分の耳を疑った。
「馬鹿なことを言うな、貴様がマーサ様の子供であるはずが無い、証拠でもあるのか!?」
ミニデーモンに言われてリュカは証拠らしい証拠を持っていないことに気付く。特徴なども聴いていないし、見たことも無かったため、リュカもマーサ の面影は覚えていなかった。
「証拠はない。けど、父様から母マーサは魔族に攫われた、その母様を助け出せと言われています」
まだ子供だったころ、自分の目の前で父は殺された。そのとき父はリュカに母は生きている、魔族から救い出せと言われたことは、忘れることの出来な い言葉だった。
「それと、ここにいるのは単なる魔物ではありません。わたしの戦友たち、仲間です」
断言したリュカをミニデーモンは不思議そうな顔で見つめ返した。
「仲間だと・・・?魔物使い程度が仲間などとふざけたことを言うな!!」
モーションも無くミニデーモンはリュカに槍を突きつける。それをリュカは身じろぎせずに正面で受けようとする。その横にピエールが瞬時に進み出る と、リュカに当たらないように槍の軌道を変えていく。
「貴様にとってはそのマーサ様とやらがマスターなのならば、我らが忠誠を誓うマスターはリュカ様一人!」
横から剣を出して軌道を変えただけだったが、そのままピエールの剣をミニデーモンは振りほどくことが出来なかった。ミニデーモンはピエールとの力 の差をここで知る。
「たかがスライムナイトが、こんなに強いのか!?」
「もっと驚いてもらおうか・・・スラリン殿、出番だ!」
ミニデーモンがたかがと馬鹿にしたが、ピエールは不敵な笑みを浮かべてスラリンを呼び出す。そのスラリンが馬車から飛び出すと、地面を蹴って体当 たりする。ミニデーモンも出てきたのがスライムだったことから油断していたが、スラリンの体当たりは簡単にミニデーモンを後退させる。
「なっ・・・いくら優秀な魔物使いでも、ここまで強くなるはずは・・・!」
驚きを隠せないと言った様子のミニデーモンだったが、その最中から呪文を展開していた。
「イオナズン!!」
立ち上がるときに展開した呪文を攻撃に移す。瞬間周りが普通と違う空気に覆われ、馬車を含む全員の周囲で巨大な爆発が起こる。ミニデーモンはこの あとの状況は良くて満身創痍、上手く行けば死屍累々にまで持っていけると思っていた。だが、その煙が晴れると、外に居たリュカ、スラリン、ピエールは 体力を持っていかれた感はあるものの、その場にしっかりと立っていた。
「危険域に達するほどの威力ではないな、今のそれがしならば、イオラでも十分お主を傷つけられるぞ」
リュカを筆頭に三人がそれぞれまだ、余裕の笑みを口元にこぼしている。ミニデーモンは一番弱いと見たスラリンに攻撃を仕掛けるが、小さな体を生か して、飛び跳ねて回っては華麗にミニデーモンのフォークを交わして行く。一瞬スラリンが止まったときを見つけたミニデーモンは勝機とばかりに突き刺し に行くが、それを止めたのは馬車から飛び出すブラウンだった。槍の切っ先にハンマーをぶつけ、スラリンに刺さるのを回避する。
「な・・・何人出てくるんだ?」
弾き飛ばされてミニデーモンはまたも驚く。自分より格下と思われる魔物たちに自分が良いように弄ばれている、その事に信じられないのは当然だった が、同時に小娘とも取れるリュカ如きが数多くの仲間を連れていることに驚いていた。
「人間はわたしともう一人。あとはここにいる三人含めて計七人いる。それにたかがスライムと思ってもらっても困る。一緒にここまで来たんだ、経験を 積んでいないわけが無い」
リュカはそう言ってミニデーモンを見つめた。
「くっ・・・」
そのミニデーモンは逃げ出そうとするがリュカがそれを止めた。
「何故あなたはグランバニアを守っているの?あなたには邪悪な陰がない」
リュカの言葉にミニデーモンは驚いた表情で振り向く。
「陰?いま、陰が見えないと言ったのか!?」
「ええ。もし陰があれば即座にそれを狙います。けど陰が無いからこうして話をしながら闘っていたんです」
リュカの口から出た言葉にミニデーモンは聞き返す。それをリュカは肯定して理由を話す。
「ばかな、陰を見て意図的にそれを払い仲間にしているのか?」
驚愕の表情をみせてミニデーモンが呟く。リュカは困ったように首を傾げて言葉を続けた。
「意図的に陰を払ってはいます。だけどここに集まったのはみな、何かの使命を持っていたものたちです。あなたのように、なにかの目的を目指す、そん な仲間たち・・・」
そのときミニデーモンが不意にリュカに攻撃を仕掛ける。だがそれを止めたのは外に居た仲間ではなかった。
槍の柄を銜えて止めると、隻眼で睨みつける。馬車の中から出てきたリンクスが、必要以上に怒りを持ってミニデーモンを睨んでいた。「き、キラーパンサー・・・!?キラーパンサーが仲間だと!?」
そのまま槍を折ってしまうような勢いで柄をかみ続けるリンクスは喉の奥のほうで「ぐるるるる・・・」と唸っている。
「…母がマーサだと言うのは信じてもらえないと思います。でも父はおそらくグランバニアの前王です」
「パパスが父だというのか!?」
静かにリュカが呟く。その言葉にミニデーモンが反応する。
「はい、パパスはわたしの父です」
その言葉を聞くと、ミニデーモンの表情が険しくなる。同時にリンクスもその出方を伺ってずっと睨み続けていた。
「マーサ様に子まで生ませたのか!?」
必要以上にマーサのことで激昂するミニデーモンにリュカは少し不審を感じる。
「…あなたは…いったい?」
「おいらはマーサ様に影を払われた、側近中の側近だ。が、パパスのヤツがマーサ様を攫って行きやがったんだ」
ミニデーモンに事情を訊ねるとようやく話をしてくれた。
「父様が攫ったなんてことは無いです」
「嘘言え!あいつがあんな事しなかったらマーサ様は死んだりしなかったんだ!!」
父が攫ったと言うことを否定するリュカにミニデーモンは真っ向から反論する。だが、いくばくかの間違いがあるようだった。
「…母様、マーサはまだ生きています。父様はずっと母様を探して旅をしていたんです」
こう言うリュカの言葉に再び驚いた顔を見せる。
「マーサ様が生きてる?」
「…父様は亡くなりましたが…わたしは母様を探して旅をしています」
リュカがここまで明かしてようやくミニデーモンはリュカの方を見る。かつてモンスター爺さんことイトがそうであったようにミニデーモンもまた、 リュカの瞳を見つめてそのまま固まる。
「・・・マーサ様の目にそっくりだ・・・本当にマーサ様の子なのか?」
信じられないと言った表情でリュカを見つめるミニデーモン。そんなミニデーモンにリュカが頷いて見せた。
「…グランバニアには、わたしの知り合いが居るはずなんです、その知り合いを訪ねてここまで来たんです」
「知り合い・・・?」
リュカの言葉にオウム返しにミニデーモンが呟く。
「サンチョと言う人を知りませんか?」
「…知っている、随分前にここを一人で通った。その様子からマーサ様が死んだとばかり・・・」
ミニデーモンが次々と知っている事実を並べられて、驚きの様子を隠しきれず、またマーサにゆかりのあるリュカに攻撃を仕掛けたことを少し悔いてい るようでもあった。
「マーサ様の子供と言うのは本当みたいだな。生きていると言うのが本当ならば見つけ出す。それと…さっきのことを詫びたい。その意味も含めて、一緒 に行っても良いか?闇雲に探すよりは一緒にいたほうが確実性がありそうだし」
ようやく態度を軟化させたミニデーモンが自分からリュカについていくことを願い出る。
「ええ、構いませんよ。わたしはリュカ」
「おいらはミニモン。マーサ様と一緒に旅をしていたミニデーモンだ」
ようやくミニデーモン−ミニモンの誤解を解いた。ミニモンの話では、今の場所から出ればすぐ前にはグランバニアの城が在ると言う話だった。
リュカたちはミニモンを追加してグランバニアに向けて歩き出す。