2.休息の日々 〜海辺の修道院〜

 リュカの耳を水の音がくすぐる。
 今まで聞いていた水の音は、妙に一滴の音が響きその一滴は断続的に絶え間なく続いていた。今は違う。打ち寄せては返す水の音。いわゆる潮騒と言うも のだった。リュカが潮騒を耳にするのは、幼い時に父と船旅をしていたあの頃以来だった。
 鼻をくすぐる風は、土ぼこりや石の粉塵ばかりだったはずが、今は暖かくてさわやかな風と甘い花の香りだった。

(わたしは…とうとう、死んだのかな)

 まだ目を開けないで意識だけが半ば戻ったリュカはそんなことを考えていた。今までの劣悪な環境であれだけの鞭を受けて、傷口が細菌にでも感染して しまったのだろう。そうであれば仕方ない。志半ばとは言えあの場所に連れて行かれてしまってはどうにもならない。
 リュカはそう思って再び深い眠りに落ちていく。が、その眠りを邪魔する声がした。

「ヘンリーさん、リュカさん意識が戻りかけています!!」

 元気の良い大人びた少女の澄んだ通る声。聞いたことがあるようなその声の主は、自分が『起きる』のではと言っている。

(起きられても身体は無いんだろうな、もう…)

 今のリュカはそんな絶望だけが心を包んでいた。意識が途切れ途切れになっていて、懲罰を喰らったところまでしかはっきりとはしていない。今居る場 所を確認することも気だるい、そんな感じでしかなかった。

「お、本当だ。寝返り打ったか…。傷も良くなってきてるみたいだし、もう少しだな」

 続けてヘンリーの声がした。ヘンリーの声は今までの沈みがちな声を無理に明るくしているそんな声ではなく、本心から喜び、明るい声が自然と出てい るそんな声だった。

「暫く私がついています、ヘンリーさんは院長様のところで引き続きのお仕事の確認をお願いしますね」

「ああ、わかった、頼んだよ」

 確かに片方はあのヘンリーの声だった。今まで知っている明るく努めた声ではなく、心の底から明るい声を出している。…もう一人。そういえばマリア はどうしたんだろう。もしかしてこの明るい声はマリアなんだろうか。今までは自分が奴隷に堕とされたことより、数多くの奴隷が劣悪な環境下で強制労働 をしていることに嘆き、光の教団ではない、いままで信仰していた神に奴隷たちがせめてこれ以上苦しまないようにと祈っていた姿を思い出す。そんなとき のマリアの声は綺麗な声であろうと予想できたが、それを押し殺してしか話をしていなかった。

「リュカさん、そろそろ目覚めても良いんじゃないんですか?」

 耳元でやはり澄んだ声でそっと語りかけられる。

(目覚めたらまた労働が待っている。少しでも長く気を失っていたい・・・)

 珍しくリュカはそんなことを考えていた。何があっても前向きに立ち向かっていたが、さすがにあの懲罰はつらかった。一回鞭で打たれただけで意識は 吹っ飛んでしまっていた。後はただ父に詫びることだけしか出来なかった。それが落ち着いているのだから、その時間から時は流れているがそれでも状況が 好転したはずはないし、そもそもありえない。あの地獄からは出られない。

(そうなんだ、そのはずなんだ・・・)

「なにが『そのはず』なんですか?」

 心の中で呟いたつもりだった。しかし気持ちは声をつき発していたようだった。マリアではないかと思われる女性の声がリュカに問いかけてきた。「で も、この声も幻聴」リュカはそう決め付けて再び眠りに落ちようとする。
 パタンと、戸を閉めるような音がした。だが、奴隷部屋には戸は無い。鉄格子の扉があるだけのはず。
 そう思っていたリュカの唇に微かに何かが触れた。暖かくてやわらかい。今まで感じたことの無い感触だった。

(・・・?)

 何か変なものを押し当てられたのではないか。そう思うと、そのまま気を失っているわけにも行かなかった。恐怖感が勝り、仮に生きているならば死に たくないと感じた。ゆっくり恐る恐る目を開ける。
 そこには髪をきれいに整え、紺のワンピースを身にまとった金髪の女性の顔があった。そしてその女性は自分に口付けをしているようだった。リュカは驚 いて飛び起きようとして、背中に激痛が走った。

「つぅっ・・・!」

 まともに声帯が動き、今度は思ったことが確実に声として出ていた。
 その女性はリュカが暴れないようにと優しく抱きしめ包み込んでいた。飛び起きようとしても無理な理由、女性が寄り添い一緒に横になって、リュカの全 身をぎゅっとだが優しく抱きしめていたのだった。

「・・・マ、マリア…さん?」

 暫く口を塞いでいたものがどいたとき、リュカはパニックになりながらただ感じただけのことを口にした。
 すると、その目の前の女性はくすっと含み笑いをして、ベッドから起き上がった。

「おはようございます、リュカさん」

 綺麗な真っ白い素肌を見せている、泥やほこりにまみれていないマリアがそこには居た。

「本当にマリアさん・・・?」

「ええ、本当ですよ。…記憶が混乱していますか?」

 リュカは疑ってかかることしか出来ない自分に少しだけ違和感を感じた。
 少しだけ自由になった瞳で周りを見回すと、白塗りの壁に花の絵が飾られた上品で清潔な部屋の中、今までとは考えられないような柔らかなベッドの上に 寝ている自分が居た。

「ここ・・・は?」

 リュカがそこまで言うと、マリアの後ろのドアが開く。そこには初老のシスターが様子を覗き込んでいたが、リュカが気づいた様子を見て、顔を明るく した。

「マリアさん、気づかれたのですね?」

「あ、院長様。はい、ようやく気づかれました。…悪夢を見ていたようです」

 マリアの返事に院長と呼ばれたシスターが入ってくる。いわゆる修道女然とした姿で、首には十字架がかかっている。

「リュカさん、とおっしゃいましたね。大丈夫ですよ、ここは名も無き海辺の修道院。聞けば酷い場所で過ごしていたそうですね。もう、その悪夢からは 抜け出せたのです、安心なさい」

 院長の優しい声に、つうっとリュカの頬を伝うものがある。リュカはただ今の状況が確認できただけで涙があふれてきた。その状況を見たマリアがスッ と近づくと、優しくリュカを抱きしめた。

「大丈夫ですよ、リュカさん。もう、あんな悪夢には苛まされません。…いまの状況を見て、いっぱい涙を流してください。その涙とともにつらい思いも 流してしまってくださいね」

 マリアの優しい声に、リュカは声にならない嗚咽を漏らして顔をくしゃくしゃにしながら泣き出してしまった。あの十年前の父を失ったときでさえ、気 を失いはすれど涙を流さなかったリュカは、あの日からいままでの悪夢の呪縛から解き放たれたことで、全ての我慢していた気持ちが解かれて堰を切ったよ うに涙があふれていたのだった。

「…ここまでくれば安全ですからね、リュカさん。ここのマリアさんも、ヘンリーさんもお元気ですよ。あなたは傷を負って衰弱していたのでなかなか気 づかなかったんですが…ようやく目覚められました」

 院長が優しいその瞳で、リュカの泣き顔を見ながらリュカを落ち着かせようとしてくれていた。

「五日ほど眠ったままで…危なかったんですよ」

 マリアの声にリュカは自分がどうしていたのかようやく理解したが、それでも次から次へあふれる涙はまだ止まりそうになかった。ただ頷くだけで、後 はマリアの胸に顔をうずめているのが精一杯だった。
 暫くリュカはただ涙を流して嗚咽だけを漏らしていた。その間、院長は優しい眼差しで見つめてくれてマリアはただ優しく抱きしめてくれていた。ようや く涙が落ち着いてきて、リュカは改めて自分の背中の傷が、全て現実であったことを思い知らされる。少しだけ顔をゆがめて、何とかベッドに座った状態を 保った。

「マリアさん、ヘンリーさんにも、意識を取り戻したことを伝えて、呼んできてあげてください」

「はい、わかりました院長様」

 院長の言葉にマリアは丁寧にお辞儀すると、リュカにも一礼し微笑みかけて、部屋を後にした。

「私はここの修道院の院長でルキアと申します。色々とお話を聞きましたけど、あなたの涙からどれだけ辛かったかは想像を絶するものなんだと感じまし たよ」

 ルキアの言葉に少し恥ずかしがりながら、リュカは頭を下げる。少し背中が痛みはしたが、思ったよりは回復しているようだった。

「お恥ずかしいところをお見せしました。…助けていただいてありがとうございます。いままでが普通になってしまった分、ここの環境が信じられなくて 悪夢を見ていました」

 先ほどのことをリュカはポツリポツリと話し始める。その間もルキアは優しい笑顔でリュカを見ていてくれた。

「時々、樽が流れ着くことはありますが、生きている方をその樽から助けたのは初めてですよ」

 その言葉に海流がここにものを漂着させるのだと理解できたが、生きているのがリュカたちで初めてであると言うことは、それ以外は助かっていないと 言うことだった。それを理解したとき、リュカは胸を締め付けられる思いがした。
 話をしていると、ドアをノックする音が聞こえた。入ってきたのはマリアと呼ばれていたヘンリーだった。

「リュカ!!良かった、気づかないかと心配してたんだぜ」

「ごめんね、ヘンリー、もう大丈夫だよ」

 脱出してからもう五日は経っているとのことだったが、ヘンリーやマリアの様子はあのときのままだった。ただ違っていることは、二人が笑顔を見せて いることだった。その笑顔にリュカも安心して微笑みを返した。

「なにかあったら、誰でもいいのですぐに呼びなさいね。まだ傷は完治していないでしょうから、リュカさんはゆっくりお休みなさいね」

 ルキアはそう言って部屋を出て行った。

「傷はまだ痛むか?」

 ヘンリーはリュカに近づいてそう訊ねる。リュカは少し顔をゆがめてぎこちない笑顔を返す。

「まだ、ね。少しの間は安静、かな」

 リュカはそう言ってゆっくりと横になった。

「心にも身体にも傷が大きくあるのはリュカさんですから、ゆっくり休んでくださいね」

 マリアもそんなリュカを見て、ルキアに似た優しい声でリュカに言った。

 

 翌日、リュカが目を覚ますとヘンリーとマリアの姿は部屋には無かった。変わりに青い髪を長く伸ばした少女がリュカの傷を手当しようと準備をしてく れていた。彼女はリュカと同い年くらいに見えたが、実際のところは大人びた雰囲気がそう見せているだけで、もう少し低くも感じられた。

「あ、おはようございます、リュカさん。私この修道院で花嫁修業しているフローラと言います」

 その女性は丁寧に挨拶をしてくれて、また深々と頭を下げてもくれた。リュカはまだ思うように動けなくて、ベッドの中でじたばたしてしまう。

「ああ、大丈夫ですよ、挨拶は。それより、うつ伏せになってください、傷の手当させていただきますね」

 リュカは言われたとおりにうつ伏せになり、フローラの手当てを受ける。

「…奴隷扱いを受けていたなんて、そんなことをするような教団なんて決して人々を救うことなど出来ませんね」

 無言になった二人だったが、フローラはリュカの背中の傷を見ながら不機嫌そうな顔をして、独り言を呟く。この言葉にリュカはどう反応したらいいか わからず、そのまま聞き流す形になってしまった。その後もフローラは何かと文句を言ったりしていたが、リュカは傷の痛みに絶えながらそう思ってくれる 人が一人でも居る事でまだ外界は救いがあると感じ取れていた。

「・・・あ、ごめんなさい、リュカさん。こんな話を蒸し返すのもいい気分ではないですよね。無神経でした」

 フローラは言いたいだけの独り言を言った後にこう謝った。リュカはそのフローラの笑顔にどこか安心していた。
 その日、フローラはリュカの看病が日課だと部屋の中でリュカの様子を見たり、話し相手になったりしてくれていた。フローラの話では、ヘンリーは修道 院と言う特殊な場所での男手として重宝され、力仕事の多くをこなしていると言う。またマリアは光の教団に入る前に祈りを捧げていた、外界で一般的な神 の存在に日々祈り、あの場所で労働を強いられている奴隷たちの無事を祈っているそうだった。
 フローラはサラボナと言う街のから来ているそうで、両親と姉の四人暮らしなのだと言う。姉は繊細ではないため修道院入りに抵抗を示したそうだった が、フローラは修道院入りして見識を広めるようにと育てられているのだと言う。最近は姉とも会う機会があり、姉は姉で自由に育てられているようだと話 してくれた。
 リュカは話を聞きはしたが、あまり身の上を話すことはしなかった。まだ、気分的に開放された実感と言うのがあまり無く、時々夢かと感じることもあっ たためだった。

 

 それから二ヶ月ほどが経った。
 リュカの傷は一週間ほどで酷い状態を乗り越え、その後からはフローラやルキアの回復呪文などを受けて、回復を早めて行った。初めはなかなか動くこと もままならなかったが、二週間程度して、傷口が完全にふさがると、自由に修道院の中を歩きまわれるようになった。また食事についてもなかなか固形物を 食べるのが困難だったが、徐々に慣らして、傷の良くなった二週間目頃にはみんなと同じものを食べていた。
 マリアはあの場所での奴隷生活自体は数週間程度で済み、ヘンリーは男として志を抱き負けないつもりでいて、またリュカを守るその意思で生活していた が、リュカにいたってはまだか弱い少女でもあり、何かのたびにフラッシュバックが起きて、その場で泣き出してしまう事が多々あった。周りの人はそんな リュカを優しく包み込んでくれて、特にマリアはいつでも隣で優しくリュカを抱きしめてくれていた。
 そんなフラッシュバックも一月も経つとどうにか過去のことと割り切ることが出来る様になってきていた。そしていつでもリュカにはマリアとフローラが 付いていてくれて、不安定なリュカの心を保たせてくれていた。また、ヘンリーとは光の教団の実態について色々と話したり、ルキアたちが集めた教団に関 する情報から、この先の対処などを考えたりしていた。そうしてあとの一月も過ぎていく。
 マリアは幸い、奴隷になって日も浅いうちに脱出することが出来たので、体調についてはすぐに取り戻し、また身体の成長についても特に問題もなく育っ ていた。幼少期から奴隷として栄養を取っていなかったリュカとヘンリーは、初めは本当にみすぼらしい栄養失調児でしかなかったが、この修道院でしっか りと栄養の取れた食事をし始めて、必要な部分には肉が付き、締まるところは締まった姿になっていく。リュカにいたっては、艶などとうになくなっていた 黒髪が、今では光に反射するほどの色艶を取り戻していて、誰が見ても美少女と言う存在になり、マリアとフローラに並んで、三人の美少女が集まったと良 く言われていた。

 

 三月目に入ったある日のこと。
 リュカは一人ベッドの中で眠れない夜を過ごしていた。なぜかこの日はなかなか眠りにつけず、比較的安定していた気持ちがざわついていた。この部屋に は当初からヘンリーとマリア、リュカの三人が寝泊りしていた。ごそごそとベッドの中で動くリュカに気づいたのか、そのベッドの一つの中で、誰かが動き 出しリュカのベッドの脇までやってきていた。

「マリア…さん?」

 リュカは一瞬びっくりしたがその姿を良く見ると、奴隷としての頃よりはるかに肌も髪も色艶を取り戻したマリアの姿があった。

「眠れないんですか?」

「…ええ。なんか落ち着かなくて。それに、なんか教団のこととかが気になってしまって…」

 マリアの質問にリュカが答えた。その声はどこか震えていて、かつての状況を思い出してしまっているかのようだった。それを感じ取ったのか、マリア はリュカのベッドに入ってくる。

「マ、マリア…さん!?」

 なんの断りも無くベッドには言ってくるマリアにリュカは驚いていたが、それを構うことなくマリアはベッドに入ってくる。そして、リュカと向き合う 形でマリアが横になると、突然マリアはリュカの唇に自分の唇を重ねた。

「んー!!」

 突然のことで、リュカは気が動転していたが、何をされているか、その行為がどんな意味かは理解できないわけではなかった。だが、なぜ自分でヘン リーではないのだろう、そういった疑問がリュカに浮かび、マリアを引き剥がそうと試みる。だが、思ったよりも腕に力のこもっているマリアの力に、体制 が不安定なリュカはかなわなかった。しばらくそうして、リュカはマリアからの口付けを受けていた。どのくらいの時間が経ったかリュカにはわからなかっ た。長いようでも短いようでもあったその時間が終わると、マリアはリュカをじっと見つめる。
「マリアさん、なにするんですか!?」
 リュカはヘンリーを起こさないように小声でマリアに訴えかける。だが、マリアは妖艶な笑みを浮かべるだけで何もしゃべらない。困った顔をして 「んー」と唸るリュカを見て、マリアはクスリと笑みを浮かべる。

「ごめんなさい、突然・・・。なんだかリュカが可愛い妹みたいな気がして。だけど、ただの妹じゃないの。フローラさんたちのような無関係ってわけで もなくて、あの場所では私に代わって慣れない作業なんかをしてくれて。なのにリュカがここに来たら突然弱々しい女の子になって。…そんなリュカのこと が好きになっちゃったの」

 マリアはポツリポツリと聞き取れるかどうかの小さな声で呟いた。いままでマリアは、二人きりでも『リュカさん』と呼んでいたが今は『リュカ』と呼 んでいた。そのことにリュカは何が起こっているのかわからなかった。

「叶わない恋だとは思ってる。だけど…今はいっぱい甘えてきてほしいんだ。我慢しないで、ね。…ヘンリーさんから聞いたけど、リュカは暫くしたら旅 に出るんでしょう?連れて行ってと言っても無理だと言うのもわかってる。だから…今日が最初で最後。こうして秘密を持って接するのは。リュカ、私は出 来たら男になりたい。で、リュカを守りたい」

 マリアの独白は続くが、リュカはどうしてか今までより更に興奮してきてしまって、マリアの切ない瞳に全てを奪われているようだった。

「…逆に私が女なら、リュカには男であってほしい。それで、リュカに守ってもらいたい」

 マリアはそこまで言うと、再びリュカの唇に自分の唇を重ねてきた。なんとなく、マリアが何を言いたいかリュカは理解したが、でもリュカ自身もそれ については考えにくいことだった。唇が離れ、お互いが見つめるとマリアの目にはいっぱいの涙が溜まっていた。それを見たリュカは思い切って話し始め た。

「…恋愛で人を好きになるって言うの、わたしには良くわからない。でもその中で一番なのは…父様かな。マリアのことも好きだけど…マリアの好きにわ たしの好きでは荷が重い。だけど…誰よりも一番の場所で、誰よりも堅くつながってる。それだけは間違いないと思ってる。姉でもあり妹でもある。それだ けは間違いないよ。…今はこれでいっぱいいっぱい…。だけどマリア、男の人、見つけてね?いつまでも一人はダメだよ?」

 リュカもまた少しだけの声でゆっくりと呟く。リュカにとって「恋愛」はまだよくわからなかったが、単純に好きとか嫌いで言えば、マリアを思う気持 ちはフローラに対するそれよりは少しだけ強くも感じた。そんなリュカの出来るマリアへの気持ちは、親友として接することだけだった。
 マリアはそれがわかったのか、満足そうな笑みを浮かべてリュカを見つめる。

「…今だけ、今夜だけ、一緒に寝て。お願い、リュカ」

「…うん、わたしも眠れないからマリアに甘えて眠りたい」

 そうして、リュカとマリアは一つのベッドでその夜はぐっすりと休んだ。

 

「ヘンリー、今は暇かな?」

 ある日のこと、外で作業をしていたヘンリーに、すっかり良くなったリュカが声をかけた。

「ん?あぁ、大丈夫だよ」

 ヘンリーが顔を上げてそう言うと、突然リュカはショートソードをヘンリーに投げた。リュカ自身もショートソードを右手で持っていた。

「…暫くしてなかったから、ちょっと稽古。これからのこともあるしね」

 可愛い物静かな美少女、それがリュカの印象だったが、剣を構えると突如として気の強そうな少女に豹変する。こんなリュカをヘンリーは一度だけ見た 事がある。

『今わたしたちは逃げることだけが先決です!!』

 攫われる前、父が自分たちのために道を開けてくれたとき。ヘンリーは父を置いていくのかとリュカに訊ねたが、その時にリュカは今のような真剣で頼 もしい姿を見せた。
 その姿を見て、ヘンリーはリュカが何を思っているのかを理解することが出来た気分だった。口元に笑みを浮かべて作業道具をまとめると、リュカの目前 まで歩いていく。

「手加減無用だよ?」

「…舐められてるな、俺」

 リュカが剣を握る右手を差し出す。ヘンリーはそれを見て同じように差し出す。お互いが剣を交差させ「カキン」と刀身をあわせる。それを合図に素早 い動きで二人は間合いを取った。
 暫くこう着状態が続いたが先に動いたのはリュカのほうだった。無謀にも直線的にヘンリーに向かって突っ込んでいく。そんなリュカを見てヘンリーは少 し笑ってリュカの攻撃を受けようとした。だが、突然出てきた攻撃は剣ではなくて、右のハイキックだった。突然のことで剣ではなく腕でガードをするが リュカの流れはそれだけでは止まらなかった。右のハイキックが止まったらいつの間にか振り上げられた右のショートソードが頭上から振り下ろされる。ま た、止まっていた右のハイキックはその振り下ろされる動作に連動して地面に向かって振りぬかれていた。両方の勢いが付いたリュカの右腕は、容赦なくヘ ンリーに振り下ろされるが、ヘンリーは軽く舌打ちするとすぐさま右手の剣を構えてそれをガードする。ギィンと鈍い音とともに剣は交差して止まる。

「ぷっ・・・」

 その状態で止まったとき、リュカは頬をいっぱいに膨らませていた。

「・・・あっはっは〜、ヘンリーってばわたし如きにそんなに真剣になっちゃ駄目だよ〜」

 突然リュカが笑い出して、剣を降ろした。ヘンリーはこの豹変に何が起こったのかと首を傾げたが、リュカは相変わらず楽しそうにその場で笑い転げて いた。

「…リュカ、俺を馬鹿にするために仕組んだのか!?」

 ヘンリーはムスッとした表情を浮かべてリュカに言う。

「違うよぉ。けど、そこまで真剣になるとは思わなかった」

 リュカはそう言って、一旦止めた笑いを再び再開する。不満そうな顔をしているのは当然ヘンリーだったが、やがて溜息をつくとリュカに言ってみせ る。

「…お前は小さくてもその頃に実戦経験があるだろう?俺はあくまで稽古の範囲でしか剣は振るえない。…でも、お前の助けにはなれると思ってるんだ ぜ、これでも」

「…うん、わかってる、頼りにしてるよ?ヘンリー」

 ほんの少しの時間だけだったが、リュカがヘンリーの実力を確認するだけの時間は十分だったようだった。
 それが、間もなく旅立つ合図だと言うことは、言われなくてもヘンリーは理解していた。

 

「昼間、突然ヘンリーさんに攻撃を仕掛けたそうじゃないですか?」

 夕方、食事の用意を指示されたフローラとともに、リュカも手伝いをしていた。その最中にフローラからそんな質問をされて、皮むきをしていたジャガ イモをその場にリュカは転がせた。

「…誰がそんなことを?」

 慌てて取り繕うリュカを見て、フローラは少し笑って見せた。

「出所は知りませんけど、誰かが見てたようですよ」

「んー、突然ではなくて、きちんと断ったんだけどね・・・そうは見えなかったのかな〜?」

 リュカは少し不服そうな顔をして手に持つ果物ナイフを器用に振り回してみせる。

「リュカさん、危ないです。いくら果物ナイフと言っても、十分に武器になるんですからね?」

「はーい、わかってまーす。・・・フローラってば厳しいんだから」

「何か言いましたか!?」

「い、いえいえ。何でもありません」

 この頃になるとリュカはもう、フラッシュバックで過去のことを思い出し体が硬直したり、泣き出したりすることは少なくなっていた。同時に過去のこ とを話してもなにか障害が出ることもなく、自分からも過去のことを話したりするようになっていた。そして、時々剣を振って実戦の感覚を取り戻そうとし ていた。ただ、ルキアやフローラは出来れば旅に出ることなく、静かに暮らしてほしいと願っている部分もあり、そうした行動は逐一監視されているところ もあった。ルキアとフローラの最低限の願いは、せめてヘンリーだけでもいいからついて行ってほしいと言うことだった。
 そこに来て突然切りかかったなど、フローラにしてみれば言語道断の出来事だっただけに、少し驚きながらその話題を出していた。

「…大丈夫、ヘンリーとも確認したうえでやった稽古だから」

 むいていたジャガイモが全てなくなったのを確認して、リュカはそう呟く。「まったくもう」と言いたそうな表情でフローラはリュカを見つめていた。 ただひとつだけ…フローラはいまのリュカだったら目前に高い壁がそびえても、きっと乗り越えられると確信していた。

 

 それからさらに数日が過ぎた。
 この修道院は海辺に作られていて、北にはオラクルベリーと言う街がある。そのオラクルベリーからわざわざ祈りを捧げに、懺悔のために、人々が訪れる ことが多々あった。ルキアはそんな人々の話を聞き、そして教えを請う人々に導きの手を差し伸べていた。日が経つと同時に、それぞれの存在も個別のもの になってきていた。それが顕著だったのはマリアで、日々祈りを捧げているその姿にルキアは「出来るならばこの修道院のシスターにならないか」と勧めて きた。いずれリュカは旅に出る。ヘンリーもついていくだろう。だがそのとき自分がついていけるかと考えると、戦闘はおろか呪文も使えない足手まといに なるだけだった。行く場所は特に無いし、故郷がどこだったかも忘れてしまった。ならばここでリュカとヘンリーの旅の無事を祈ることで、少しでもリュカ たちの旅が楽になったら、と考えていた。そうしてマリアは自然とシスターへの道を歩むようになっていた。
 そんなマリアが今日もルキアの横でシスターとしての心得を受けているとき、ここ三ヶ月強では見たことの無い老人が訪れた。その老人をルキアは知って いるらしく、洗礼や懺悔ほマリアではなくルキア自身が買って出た。普段の一般の人が来たときは大体、ルキアが隣につき、マリアが手を差し伸べることが 多かったのだが、このときはマリアに見ているようにと伝えた。
 その老人はどうやらオラクルベリーで生業をしているらしいのだが、それらの過程でどうしても重い罪になりうることをしていると言う懺悔をしていた。 ただ、詳しい内容は一切話さない。その点でルキアは承知していることがあるのか、その懺悔を聞いていた。一通り懺悔が終わると、老人は何も無かったよ うに、導きの手も受けずにその場を去ろうとする。マリアはそれを止めようとしたが、ルキアは黙って頷くだけで止めようとはしなかった。
 そんな老人の前に、洗濯物をたくさん抱えたリュカとフローラ、ヘンリーが通りかかる。老人は普段、フローラは見たことあったようだが、リュカとヘン リーは初めて見たこともあり、顔を凝視するような形になった。ルキアの知る初対面の人と老人との間はその凝視する行為だけだったのだが、この日は違っ ていた。
 洗濯物を抱え込んでいるリュカの顔を見た途端、その老人はリュカの両肩を掴む。驚いたリュカは洗濯物を落としてただ呆然と立ち尽くすだけになってし まった。同時にヘンリーは突然リュカの肩を掴んだ老人に文句を言おうとした。が、突然その老人はリュカの前に崩れると泣き出してしまった。

「あ・・・あの、どうしたんですか?」

 リュカは混乱する気持ちをなんとか抑えてその老人に尋ねる。フローラも心配になり老人のに横にしゃがみこんだ。だが、その老人はただ泣いているだ けで、話が出来る状態でもなかった。困ったと言った顔でリュカはフローラと見詰め合う。そこに、ルキアとマリアも駆けつける。

「…まさか、リュカさんが…そうなのですか?」

 駆けつけるなり、リュカにもたれかかるように泣く老人を見て、ルキアは言葉を端折って老人に尋ねる。するとその老人は首を一生懸命に縦に振り、ル キアの言葉に答えていた。
 ルキアの指示で修道院の一室に通されたその老人は、なんとか嗚咽も収まり落ち着いた顔を取り戻していた。

「この方はオラクルベリーのカジノで魔物たちの世話をしているイトと言う方です」

「…いや、もうその名は捨てました。わしはモンスター爺さんと呼ばれておる。突然すまなかったの、娘さん」

 イト−モンスター爺さんはそう言って先ほどの無礼を詫びる。そしてことの事情を話し始めた。

「わしは一応、魔物使いと言う名を与えられておる。実際に一部の魔物を従えることは出来るが、そこまでじゃ。このオラクルベリー近辺でもわずかの魔 物を従えるのみじゃ。より強いものはわしが叩き伏せて無理やり従わせる、それしか出来ぬ能無しじゃが…娘さん、お主はわしが一度だけ見たことのある真 の魔物使いに瓜二つなんじゃ」

 魔物使いと言う名さえ聞いたことの無いリュカたちはどこまで信じたものかと疑っていたが、それを打ち破ったのはルキアだった。

「イトさんはこれまで、叩き伏せ従わせることで魔物を使ってきたのだそうです。が、その一度だけ見た真の魔物使いの方と比べれば、方法も実情も、自 分はまるで奴隷を扱う主人のようなものだとイトさんはおっしゃるのです。…実際、そのようなものなのでしょう。だから時々ここに来て、その魔物使いの 方に詫び、魔物たちに詫び、そして神に懺悔をしているのです」

 魔物使いと言う名はあまり世間に知られてはいない。そしてこれまで十年外界と閉ざされていたリュカやヘンリー、そして光の教団に出家の形で入って いたマリアがその事実を知るはずはなかった。

「奴隷・・・って」

 リュカはその言葉に酷く嫌悪感を抱く。ヘンリーもマリアもあまりいい顔をすることは無かった。

「…真の魔物使いは、心を魔物と通わせて魔物のほうからついてくるのじゃ。わしのように無理やり従わせずとも、魔物の意思でマスターに従う。何も叩 き伏せるなどと言うことをせずともよいのじゃ。その魔物使いの姿とお主の姿は瓜二つ、そしてその心に抱く気持ちは、わしなどには到底まぶしくて直視な どできん」

 イトの言う言葉にヘンリーやマリア、フローラはなんとなく納得していたが、当のリュカはまだ半信半疑だった。

「瓜二つの姿かもしれませんが、魔物を行使できると限ったわけでは無いと思うのですが…」

 リュカは素直に自分の思うことを口にする。すると納得したようにイトも頷いてみせる。

「お主、わしを見て何も感じぬかな?きっと見えるはずじゃ、わしの背負った憎悪や糾弾の数々が・・・」

 イトはそう言って俯く。リュカは何のことかわからなかったが、しかし、ヘンリーたちやルキアを見ているときと違う違和感を確かに感じていた。イト の背後に何か別の思念体が見えていたのだった。それがはっきり見えた瞬間、リュカは意識を失ったような違和感を覚える。同時に自分の意思ではなく勝手 に体が動き出す。
 それは本当に刹那だった。
 リュカが突然その部屋のテーブルにあった果物ナイフを手に取るとイトに切り付けたのだった。
 だれもそれに反応することは出来なかった。ヘンリーでさえも。だが、ただ一人、イトはリュカがそうした行動に出るのがわかっていたらしく、微動だに しなかった。リュカの手のナイフはイトを掠めると、その背後に切りつける。
 イトの背後を切りつけたあと、ヘンリーは遅れてリュカを羽交い絞めにし、マリアとフローラがイトに駆け寄る。

「リュカ!!何してるんだ!!」

「イトさん、大丈夫ですか!?」

 ヘンリーがリュカを嗜め、マリアが駆け寄る。ルキアはそれを少し離れて見守っていた。

「…これで、あなたの呪縛は消えたはず」

 うわ言のようなリュカの呟きが聞こえる。そしてその声にイトは再び涙を流し始める。

「さすがじゃ・・・わしに巣食っていた魔物の悪しき心を打ち砕いてくれるとは…感謝する、リュカ殿」

 泣きながらイトは言う。今までのリュカに対する言葉遣いと違い、リュカも固有名詞で呼んでいた。

「リュカ・・・?」

「…見え、ました。あれが悪しき心?」

 羽交い絞めにし手いるヘンリーは何が起こったのか把握できなかったが、放心していたリュカは意思のある声を出す。そして、イトに向き直る。

「…なぜ、人間のあなたに悪しき心が?」

「…業ですじゃ。わしは無理やりに魔物を従わせてきましたからな。それらはいずれ憎悪、憎しみを生み出し、思いはわしを食い尽くす」

 イトは涙を流しながらリュカに話した。リュカはそうしているうちに色々と思うところが出てきていた。

「もし、わたしが現れなかったらイトさん、あなたは…」

「食われ魔物になるか、食われ死んでおったのでしょうな」

 ポツリポツリと小さな声で話す。もうイトの涙は止まっていた。イトの今までの目は生気を失っている目だったが今リュカを見つめている目は輝き、そ して神々しいものを見るかのような瞳になっていた。

「わしの場合は人間、濁った心もすぐに見透かせたでしょうがな。魔物のものはちと見難い様じゃ。もし従えるつもりがおありならば、わしのところで修 行をするのがよろしかろう。なに、時間はそうかからぬ」

 イトはそう言うがリュカは返事に困っていた。仮に魔物を従えても事態がどこまで好転するかはわからなかったからだ。イトはそれを見透かしたのか、 少しだけ柔らかな笑みを浮かべる。

「心配せずとも大丈夫ですじゃ、従う魔物は人を襲うことも無くなり、人を遠ざけることも、人が怖がることもなくなりますじゃ」

「・・・でも…。少し、考えさせていただけますか?」

 イトの言うことを疑っているわけではなかったが、突然そのような事態になって何がどうなっていくのかはわからなく、また色々と考えて行きたいとも 思っていた。

「そうですな、これからのことも考えて決断されるのがよろしかろう。わしはオラクルベリーにおりますので。モンスター爺さんと言えば誰もがわかるは ず、来てくれると信じておりますが…よく、考えられるのがよろしかろう」

 イトはそう言って、ルキアさえも見た事が無い笑顔をリュカに向けた。

「イトさん、一つだけ知っていたら教えてください。その、魔物使いの名は…?」

 リュカはイトに神妙な態度で訊ねる。

「…名までは・・・。わしが『エルヘブン』地方を旅していたときのことですじゃ」

「・・・エルヘブン・・・?」

 もしかしたら、母の手掛かりがあるかもしれない、そう感じて聞いたことだったが母の名を聞くことは叶わなかった。そして、どこにあるかわからない 土地の名を聞くことになった。
 部屋にリュカ、ヘンリー、マリア、フローラの四人が残る。
 暫くは悩んだ顔をしていたリュカだったが、それでもどうしようとしているかヘンリーとマリアにはわかっていた。

「…刻(とき)、かな」

 リュカはそれだけ言う。その言葉にヘンリーは納得したような頷く。マリアも同意したように一回頷いた。フローラだけはどこか納得できない雰囲気で いた。

「フローラ、そんな顔しないでよ。…わたしはいつかここから出る予定だったんだし」

「…ですけど、少し急すぎる気がして…」

 納得できないままだったが、リュカがそう言うのだから仕方ないと言った感じで不承不承納得した感じだった。

「どちらにしたって、明日すぐなんてことは出来ないんだから。旅の準備はしないとね」

 リュカはフローラに明るく言ってみせる。言い終わった後に小さな声で「ありがとう、心配してくれて」と呟いた。
 それから二日後、リュカは旅立ちの日を迎える。

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