1.ジャハンナ
ティラルの話が終わり、誰もがその意思を改めて確認した。
「リュカの言うように、ここに居る全員が関わる物語だ。誰一 人として欠くことは出来ない」
その言葉に少しだけ意表をつかれたのはビアンカだった。
「リュカ、私もそのメンバーの中には入っているのよね?」
みなが反対しようとも付いて行くつもりではあったが、改め てティラルから話された重たい話の前にビアンカは少しだけ怖気ついていたのも事実だった。
「ビアンカ姉さまにとっては、ダンカン小父様が父様の知り合 いであったことが物語の始まりですし、そのことで誘拐され、石化させられ、いまここに居るというのが全てです。…ビアンカ姉さまが嫌だと言っても、物 語を完結するためには、付いて来ていただかないと」
少しだけどきどきしていたビアンカにリュカは「付いてくる のが当然」と言いたそうな言葉でビアンカの同行を示した。
「姫父様、私たちだけではなく、お母様まで守らねばならな い、大変な仕事ですよ?」
レシフェが茶化すように言うと、リュカはわざと困ったよう な顔をしてみせる。それを見たアスラが小さな声で「えぇ〜!?」 と驚きの声を上げると、舌を出してリュカは笑って見せた。
「足手纏いにならないようにだけは気をつけるわ」
ビアンカはそう言って改めて自分の装備や服装を正した。
「まずはエルヘブンからだね」
ビアンカのちょっとした仕草を見られることを嬉しく思いな がら、リュカはそう言ってこれからの行く先を確認する。
城の外に出て、リュカは天空のベルを取り出し、マスタード ラゴンを呼ぶためにそのベルを鳴らす。暫くして、大きな影が空いっぱいに広がり、マスタードラゴンはリュカたちの前に降り立った。
「いよいよ、行くのか?」
マスタードラゴンはそう言ってリュカたち全員を見渡す。誰 もが無言ながら、その意思の強さは容易に見て取れた。
「まずはエルヘブンだな」
静かな低い声でマスタードラゴンはリュカに訊ねる。リュカ は力強く頷いて答え、周りに居るビアンカを初めとした全員に目配せをする。人間はマスタードラゴンの背の上に、魔物の仲間たちは馬車に乗り込みエルヘ ブンまでほぼ瞬時に移動する。
そのエルヘブンでは、グランディアがリュカたちの到着を遅 しと待っていた。
「竜の王に会うことができましたか。そして、紋章も。リュ カ、さすがはマーサとパパス殿の娘だけのことはありますね」
グランディアはそう言うと改めてリュカの瞳を見つめなお す。
「北の湖から洞窟に入り、先に進むと女神像のある祭壇に当た ります。その祭壇で紋章を使いなさい。われわれエルヘブンの民はもう、次元の違う世界との扉を開くことはできません。しかし、マーサが力を宿した紋章 と、かつての入り口であれば、その扉を開くことも叶うはずです。・・・リュカ、無理はいけません。ですがせめてマーサだけでも無事に連れ戻してくださ い」
グランディアはそう言うとリュカの手を取った。リュカは何 も言わずにうなずくと、グランディアのその手をぎゅっと握りしめる。
エルヘブンの外にはマスタードラゴンが羽を休めていた。そ の傍ら、湖にはリュカたちがルドマンから譲り受けた船が停泊している。
「その洞窟は私では入れないのでな。話を聞いたところで船を 持ってきた。リュカよ、魔界は今までの常識が全く通用しないと考えるのがよいだろう。無茶はするな。…ティラル、リュカたちを頼む」
マスタードラゴンは静かにそうつぶやく。リュカとティラル はその言葉にうなずき、湖の先にある洞窟を目指して船を航走らせた。
「…ここが祭壇・・・?」
しばらく船を航走らせると、グランディアの言うように女神 像の祀られた祭壇があった。その後ろには、重々しく不気味な扉がある。
リュカはその異様ともいえる雰囲気に声を上げる。ティラルたちは声もなくただその扉を見つめるだけだった。そして魔物の仲間たちも、魔界にいたわけでも なくしかし、禍々しい気だけに捕らわれた扉に少しばかりの恐怖を覚えずには居られなかった。「さて、おそらくここを通ったら、ミルドラースに対面する、 そして倒すまでは戻ってこられないとしか考えられない。覚悟は・・・出来た?」
ティラルがただ言葉を失ってしまった全員に、何とか声を振 り絞り尋ねる。
恐怖や憎悪と言うものがすぐ目の前でひしめき合っているその扉を前に、怖気づいた者はだれもいなかった。
全員がそれぞれの顔を見ると、自分の意志と各々の意志を確認しては頷き合う。最後にリュカがその意思を全員に確認すると、炎、水、命のリングを女神像の 手のひらに乗せる。
少しの沈黙した時間が流れる。
扉の禍々しさがどんどん増して、誰もがそれらに押しつぶされそうになっていた。しかし誰一人その場から逃げることはなく、一歩たりともその場を引くもの はいない。
それまで強固に閉ざしていた魔界との扉。それがここで開かれる。
その先には旅の扉が存在していたが、ただどす黒くあらゆる憎悪や悪しき気が混沌と化して渦巻いているだけのものだった。「この先が魔界・・・」
アスラが旅の扉を覗き込みながらつぶやく。
「よし、行くよ!準備はいいね?」
意を決し、リュカが先陣を切る。そして次々に旅の扉に身を 投じていった。
リュカが気が付いたとき、黒い光が差し照らす不気味な世界 が目の前に広がっていた。一応視界は効くが、なのに一寸先は闇ともいうような怪しげな黒い光に覆われていた。
旅の扉の出口は綺麗な水で囲まれて、禍々しさや憎悪などは存在しない。しかしその外側の黒い光は意思を持つような程に強い悪意を感じずにはいられなかっ た。『・・・・・・リュカ、とうとうこちらまで来てしまったので すね』
それぞれが旅の扉の前で唖然としているとどこからともなく マーサの声が聞こえた。
「母様・・・母様を放ってはいられません。それにミルドラー スと言う存在をそのまま放置することもできません。…お叱りはあとで受けます」
『叱りなどするものですか。あなたたちは仲間に恵まれ、そし て強くなりましたね。リュカ、これを受け取りなさい』
マーサの言葉のあと、リュカの目の前に澄んだ青色の石が姿 を現す。
「母様、これは・・・・・・?」
『それは賢者の石です。あなたたちを助けてくれるでしょう。 戻れなどとはもう言いません、無事に私のところにたどり着くのですよ』
マーサの声はそれだけ伝えると途切れてしまう。
リュカの手には賢者の石が握られ、今までのことが嘘ではないことを唯一物語っていた。
旅の扉は小さな祠のなかにあった。皆がその祠を出ると、あ るゆる悪意に体を刻まれるかのようだった。
「押し返されるような感じはない・・・むしろ、引き込まれ る・・・?」
リュカたちが魔界に足を踏み入れると、見えていたような悪 意はなくなり、黒い光で辺りは逆によく見えるようになる。そして、何物も拒むと思われた世界はむしろ、リュカたちを引き込むかのようだった。
アスラはつぶやきながら歩き出す。「アスラ、気を付けて歩きなさい。いくらリュカやティラルさ んがいるとは言え、なにが起きるかわからない場所。自分が勇者であるという自覚を過信しないようにしなさい」
そう言いながらアスラの肩にやさしく手を置いたのは誰でも ないビアンカだった。その手がかすかに震えているのを見て、リュカはビアンカのもう片手をぎゅっと握りしめる。
「ビアンカ姉さま、大丈夫。アスラは私たちの想像以上に強く 育ちました。…ビアンカ姉さまは、そして仲間一人一人は、ここにいる全員で必ず守ります」
リュカがそう言ってビアンカを安心させる。ビアンカはそん なリュカの手を握り返すと、自分の怖気づいた気持ちを隠すことなくさらけ出す。それでもビアンカはついて行くことを辞めようとはしなかった。
「魔界」と言うだけで、強大なものに襲われるのではないかと想像していたが、意外にそんなことはなく、ただ何者かに導かれるままに暗く光るその道を進ん でいた。魔物たちも現れるが決して勝てない相手ではなく、そんな魔物たちはある程度リュカたちを傷つけると逃げ出すといった行動ばかりをとっていた。
そうして進むと、高い壁に囲まれた、それなりの規模の街が姿を現した。「魔界に街が・・・・・・」
リュカたちはその光景に異様なものを感じずにはいられな かったが、先ほどからの誘われているような感じはこの街に立ち寄ることを求めているようだった。
街の中には人間と魔物とが共存していた。そして、高い壁の 内側には清らかな水が流れ、水の壁が作られていた。リュカたちは呆気にとられたままで街の中を進む。
「あなたがリュカさんですな?」
そうした時、突然声をかけられた。そこには恰幅のいい男性 が立っていた。
「はい。…あなたは?」
「私はこの街、ジャハンナの責任者でバトラー。もとはヘルバ トラーと言う魔物でした」
そう言いながら、バトラーはリュカたちを街の中でも大き目 の屋敷に招いた。
屋敷の中でも魔物と人間とがわけ隔てなく接していた。
「ジャハンナ、と言うのですか…」
リュカはバトラーにつぶやいた。バトラーは笑いながらリュ カがどこか放心と言うか、心ここに非ずの状態になっているように感じていた。
「驚いたでしょう。この街はもともとが魔族や魔物だった者た ちの集まった街なのですよ」
人のよさそうな笑みを浮かべて、バトラーはそうリュカに告 げる。
「ここの街の大半の者はマーサ様に邪気を払われたものです。 そして、この街自体もマーサ様が作られたと言っても過言ではありません」
その言葉を聞き、リュカは驚いた表情を見せた。
バトラーの話によると、ミルドラースに捕らわれたマーサの 元で身辺の世話をする魔族の者、魔物たちが次第に悪しき心を払われるようになっていったという。それに気づいたマーサがミルドラースから隔離できる場 所を造り、悪しき心を払われたものたちを非難させたのがジャハンナの始まりだと言う。
「マーサ様はそうしてジャハンナに邪悪・邪気を払ったものを かくまり始めましたが、それがミルドラースに見つかり、この街が消えるかもしれない危機になりました。ミルドラースはあらゆる『もの』から、憎悪や絶 望と言った負の力を自分の魔力としていました。そして、マーサ様の大きな絶望に目を付けたのです」
「ふぅ」と一息つきながら、首を振ってバトラーはその言葉 をいったん休める。
「…マーサ様だから、リュカと同じように邪気を払うことので きる人だったから、逆に利用したと言う訳ね」
どうにもできなかったと代弁するバトラーの様子を見て、ビ アンカはバトラーの心を汲む。
「初めのうちはマーサ様はミルドラースには加担できないと拒 んでいたのですが、われわれの存在が明らかになり、いわば人質として扱われてしまったのです。やむを得ずマーサ様はミルドラースのために祈るようにな り、その清らかな祈りはミルドラースの悪意をどんどん増幅させていきました」
広間で話をしているバトラーとリュカたちの前に、まだ成長 過程にあるとも言えるようなスライムが何かを持って姿を現す。
「ご苦労。…これは『聖なる水差し』です。マーサ様から預か りました。この水差しから生まれた水は、どんなに悪しき場所、悪しき空気の中でも、清い水を作り出します。…このジャハンナを取り巻く水の壁も、この 水差しから作り出された清らかな水なのです」
水差しをスライムから受け取り説明をしたバトラーは、その 水差しをリュカに差し出す。
「マーサ様からの言伝です。この水差しを持ち、エビルマウン テンに来なさい、と」
広間の一部にある大きな窓を開け放つバトラー。その先に見 えるのは、例の黒い光に照らし出された険しい山だった。その山にミルドラースが存在すると言うことは、説明されずともそれぞれが理解できた。
「わかりました、バトラーさん。必ずミルドラースを倒しま す。そして、ジャハンナもミルドラースの悪しき手から救い出します」
リュカはそう言って聖なる水差しを受け取った。
「最後に一つだけ。ミルドラースは巨大な負のエネルギーの塊 です。そのミルドラースに対して、負の気持ち、憎しみや憎悪と言ったものを持って闘わないでください。どうか、リュカさんが邪気を打ち払うときのよう に、清い心を持ってミルドラースに対してください」
その後、バトラーはそのまま一晩、リュカたちを屋敷で休ま せる。その間にリュカたち人間も、ピエールを初めとした魔物たちも宿敵を前に束の間の休息を得る。
そして翌日。
バトラーやマーサの身を案じるジャハンナの人々に見送られて、リュカたちはエビルマウンテンを目指す。