ある駅通りから外れた裏道/
いつもの通院帰り、駐車場に止まっている車に向かってその裏道を歩いていた。
前方から、女性が慌ただしく走って来るのと、その後ろで大声を出してその女性を追いかけてくる男の姿が見えた。女性は助かったとばかりに水無月咲夜(みなづきさくや/男)の後ろに隠れるようにして大声で「助けてください!!」と叫ぶ。そのことで、裏通りなのに比較的人通りの多い方であるこの裏道で何かがあったのではと人々が集まってくる。咲夜の前方からは男がナイフ片手に、どうも咲夜の後ろの女性を傷つけようとしているようだった。
咲夜 は背負っていたリュックを下ろすと、その男のナイフを持つ手にぶつけたが、容赦なくその男は咲夜との間合いを強引に詰める。リュックの中は生憎、紙や薬と 言ったものしか入っていないで、ナイフを止める事はできず、左の腹部を咲夜は刺される。だが同時に強引にそのリュックを振り回すと、傷は少し広がったもの の、ナイフを男の手から離すことに成功する。咲夜は自分でも驚くぐらいに、リュックを投げ捨てるとナイフを取りに行こうとする男に後ろからタックルして、 地面に這いつくばせ、上に乗ってある程度動けないように止める。
誰かが110番をしてくれたようで、すぐに警官がやってくる。
「大丈夫ですか!?」
と、お決まりの文句を言われたがそんなに咲夜は大丈夫でもない。すぐに飛ばしたナイフも見つかり、男は殺人未遂と銃刀法違反で現行犯逮捕と相成った。
その 騒ぎの中に救急車も入ってきて、道路に大の字になって転がっていた咲夜が被害者だとすぐにわかると、ストレッチャーをそこまで移動し、咲夜はすぐに救急車 に運ばれた。そして関係者も同乗するように促され、咲夜のリュックをもってきてくれた、咲夜の後ろに逃げ込んだ先程の女性が同乗した。
一番近くの救急病院に運ばれたが、実際の傷は意外と複雑に斬りつけられていて、縫合もなかなか一筋縄ではいかないと言った様子だったそうが、その辺りは救急のプロ、30分近くで縫合を終えた。咲夜はしばらく安静と言うことで、今夜は強制入院の措置が取られる。縫合を終えた咲夜は一気に安心したのか、局部麻酔が体に回ったのかで、今は寝息を立てていた。
それから一時間ほどで咲夜は目を覚ます。いつもの咲夜自身が通う病院の受付時間が夕方だったため、当然もう、冬時間での夜がやってくるのは早く、外は暗くなっていた。ズキッと左の腹部が痛み、初めてそこで刺されて大きくないものの傷を負ったことを認識する。
「っ…てぇ・・・」
そっと手を添えて、その場所を探ると救急用のガーゼだかが当てられた腹部が確認できわずかだが血がにじみ出ていた。ふと、右に人の影を見つけて振り返る。その動作だけでもズキンとした鈍痛を覚える。
「あの…目が覚めたんですね、傷の方は大丈夫…じゃないですよね。すみません、私が突然後ろに回り込んでしまったことでこんな目に遭わせてしまって」
その女性は咲夜の陰に逃げ込んで、犯人から逃げようとしていた女性だった。
「いえ、大丈夫ですよ。多少の痕は残りそうですけど。…しばらくは痛みそうですね。それより、怪我はありませんでしたか?無我夢中で自分のリュックをナイフの盾にしようとしたんですけど、薄い物しか入ってなくて、失敗でした」
咲夜はそう言って笑って見せ、腹部に痛みが戻ってきて笑いながら顔をゆがませた。
「私の方は全然。怪我一つありませんでした。…ほんとうにありがとうございました。あの…もしよかったらお名前、教えていただけませんか?それと…連絡先とか教えていただいても良いですか?」
「礼とか言うのであればいいですよ。できることをしただけですから」
女性から言われて、咲夜はそれを拒否したが、それでもせめて連絡先だけでも、礼はしないでも教えてほしいと言うことで、水無月咲夜の名前と、住所、電話番号、メールアドレスを教えた。
「私は桧並彩乃(ひなみあやの/女)と言います」
その時、改めて咲夜がその女性を見ると、今人気のUnlimitedと言うグループのセンターツートップの片方を務めている、いわゆる芸能人だと言うことが分かった。
「また、改めて連絡させていただきますね。今日はこのまま眠ってしまうのが良いとお医者さんは言ってました。…ご迷惑かもしれませんが、今夜は私もこちらに居させてもらいますね。命の恩人にそそくさと自分だけ逃げかえるような姿をお見せすることはできませんし」
そう言って彩乃はその場で居住まいを整えて咲夜の顔を覗き込んでくる。
「いや、大丈夫ですから、ほんとに。お仕事だってあるでしょうから、帰っていただいて大丈夫ですよ。…芸能人の方がどんな風に仕事をしているのかはわかりませんけど…」
そう言って咲夜は無理に病室に残る必要はないと、彩乃に言うが彩乃の方も特に引く様子もなく、椅子に座ったままでいた。
「私の方は会社命令でとりあえず明日の朝まで咲夜さんの様子を見ることと指示が下っているんです。なのでお邪魔かもしれませんが居させてくださいね」
ようやく口を開いたかと思うと、ここに居ることが会社命令だと言うことで動くに動けない様子のようだった。
「…本 当は桧並さんのような方に聞くのってズルいのかもしれませんが…俺の方も連絡先、教えていただけませんか?連絡を今後取るとは思えないですけど、一応、こ の事件のことで、聴取などがあった時にお互いが確認できるようにしておかないといけないですから。被害届は出されるんでしょう?」
「ええ。明日警察の方が事情聴取に来られるそうです」
そう言いながら咲夜はスマートフォンを取り出す。パスコードで待ち受け画面から通常のアプリ画面に戻し、電話帳を開く。すると、スッと彩乃は咲夜のスマホを取り上げる。
「自分で入力しますね」
そう言って、彩乃は自分の連絡先を入れ、SNSなどのアドレスも追加していた。そして、社命と言うことで、ベッドの脇に座ったままで、いつの間にかスースーと寝息を立てていた。咲夜も痛みと精神的にも肉体的にも気を使ったせいか、しばらくして、同じように寝息を立て始める。
エイミープロダクション/
前日の通り魔事件から逃れて、同じような夢を見て彩乃は飛び起きる。
「おはようございます、桧並さん」
彩乃が起きるとそのベッドで寝ていたはずの咲夜はすでに起きていた。
「傷、まだ痛みますか?」
「いえ、昨日よりは痛くないですよ。まぁどちらにしても風呂とかに入ると痛いとは思いますが」
そう言ってまた、痛みに顔をゆがませながら笑ってみせる。
朝の 回診は朝食より早く、ドクターが来てくれたが、思ったより止血が出来ていないようだと言う話だった。縫合個所については特に問題はないので、血さえ止まれ ば徐々に回復するだろうと言うことだった。だが、その傷口の状況から予後観察のため一週間程度入院しなければならないとのことだった。
昨日の通り魔事件から解放された彩乃は、また改めて見舞いに来ると言うことで、一旦事務所に戻り、状況報告してくるとのことで、咲夜は一旦、一人部屋で一人取り残された。
その頃彩乃は事務所の前まで来ると,ほっとしたのか身体が震えだす。それを無理に止めて、なんとか所属事務所に着く。だが、昨日のことなのに事務所のドアを開けたら腰砕けの状態になり、笑い泣きしてしまう。
「ど、どうしたのよ彩乃」
担当のマネージャー・長谷川智恵(はせがわちえ/女)が、 本来は休日だった彩乃が一晩の介助をしたのち事務所に戻り、事務所に入ったとたんフッと姿を消したので、入り口辺りにまで来てみると、彩乃が腰を抜かせ て、荒く息をしながら表情は泣き笑いをしている状態だった。智恵が驚いた様子で彩乃の様子を見る。彩乃は智恵の姿が確認出来たら、飛びついてきた。
まだ息荒く、涙も止まっていない状態なのでとりあえず椅子に座らせ彩乃が落ち着くのを待つ。彩乃が飛び込んできてから三十分くらい、ようやく彩乃自身は落ち着き涙も止まり、平常心に戻った感じだった。
「話、できるかい?」
智恵が彩乃に確認すると、コクンと一回頷いて、彩乃は話を始める。
「…で、彩乃。助けてくれたその男性の怪我は?」
「左腹部を刺されました。傷自体はそんなに深くなくて、とりあえず縫合して自然治癒を待つようになるそうですけど。昨日は一応応急と言うことで、検査入院的な形だったそうです」
そう言って彩乃はその現場を思い出したのか、また震えが戻ってきてしまう。智恵がなんとかその震えを止めようと抱きしめて、安全な場所にいることを彩乃自身に言い聞かせる。
「…その男性の連絡先は?」
「聞いてきました。…礼とかそう言うものはいらないとは言っていたんですけど…」
彩乃がその場の状況を簡単に説明し、男性-咲夜が礼などはいらないと言っていたことをそのまま智恵に告げる。
「いや、相手がどう言おうと、礼はしないといけない。怪我までさせちゃったんだもの、最低限のマナーってやつでしょ。…言葉での礼は言ってきた?」
「なんて言ったかまでは動転していて覚えていないのですが、礼をして何度も頭を下げていたのだけは覚えています」
彩乃が言うと、「そっか」と納得したように智恵はポンと彩乃の頭の上に手を置いて何かを考え始める。
「彩乃、急だけど今いるマンションから違う場所に転居しなさい。場所は…できれば人通りの多い場所、それと通勤の楽な場所。23区内にはしなさい」
智恵は彩乃の頭に手を乗せたまま、そう言ってきた。元々、彩乃が狙われたと言うことは、彩乃のいる場所が漏れていると言うことが大きいと言うことだった。それから逃げるには、今住んでいる一室からは引っ越す必要があった。
「…どんな状況で彩乃は狙われたの?」
「マンションの玄関で待ち伏せされていました。なので、どんなルートであれ、私の住んでいるマンションがばれていることになっているのは明らかだと思うので、早めに転居します」
彩乃も身の危険を感じて、今のいる場所からはすぐに逃げたい気分になっていた。
「ちなみに、相手の男性って?」
「水無月咲夜さん、住所は埼玉県〇〇市、県北ですね」
「そうか…休みの日に先方の自宅に押し掛けよう。そうでもしないと礼は受けないと思うから」
智恵は咲夜の名を聞き確認を取り、彩乃を助けた後に「礼はいらない」と言い続けていたことを考えると、改めて礼に行くと言っても多分電話だけで充分だと言うに違いなかった。そのため、強行ではあり無礼であることは承知の上で、突然家を訪ねようと言う話になった。
突然の電話/
一週間後、咲夜は自宅に連絡すると、すぐに車の運転はできないだろうから、どこかで宿を取れと言う指示が両親からあった。幸い、近くにいつも利用するビジネスホテルがあったので、とりあえず、そのビジネスホテルにチェックインして、部屋に入る。
一週間経ったこととは言え、まだ傷は痛いし、血こそ出なくなったものの傷自体は治ったとは到底言えない状態だった。ホテルの部屋で荷物などを下ろして一息つく。身体が恐怖でガクガクと震えだす感覚が出てきて、傷口のあたりを軽く押さえながら、ベッドに横になる。
「ふぇー、あんなことがあっても動こうとすれば動けるんだな。…これで何かあったら…ティーカップなんかを強制的に受け取らせられたら、電車男だなまるで」
助けた時の動きを自分で振り返ってみると、とても自分が動いたようには感じられなかったが、実際にこうして傷を負わされて痛みを伴っていることを考えると、ナイフを持った通り魔に立ち向かって人ひとりを助けたことが嘘ではないことがわかった。
しばらくボーっと天井を見つめて、傷が痛み出していた。そんな時にスマホの着信音が鳴る。
そのディスプレイには「桧並彩乃」と表示されていた。一週間前に助けた、その後は音信不通だったが、その女性が「こちらから連絡することもあるので」とほぼ強制的に一通り登録してくれたおかげで、誰からの着信かはすぐに分かった。
「もしもし?」
咲夜はそう言って、少し慎重に電話に出る。
『あ、水無月さんですか?一週間前に、助けていただいた、桧並です。傷の方は…まだ痛みますよね?』
「ああ、…傷はちょっとずきずきしていますね。…それより、改めて桧並さんの方は怪我はありませんでしたか?どのあたりから追いかけられたのか分からないですけど…」
咲夜はそう言って、彩乃の心配をする。自分の後ろに駆け込んだ時点で、走って回り込むことが出来るくらいの状態だったから、心配ないだろうとは思っていたが、一応訊くことにはしてみた。
『おかげさまでどこも傷はないです…が、ちょっとショックで事件翌日に事務所に出社してからしばらく放心していましたけど…』
「ああ、それは一緒です。自分はもう一泊東京で休んでから明日帰宅予定ですけど」
彩乃が言うと、何となく咲夜も同じ状態であったんだなぁと確認出来て、自分より怖かったんじゃなかろうかと感じていた。
『いまはどちらですか?住所は埼玉県北部になってますけど』
「この状態で車の運転はできないので、車のとめてある駅のビジネスホテルに一泊することになりました」
いくらオートマチックで左足を動かさないとは言っても、何時、傷が痛みだして自分を見失うかはわからないし、無我夢中で通り魔と対峙したがそれがいつフラッシュバックするかもわからない。とりあえず、一晩落ち着くことに専念しようと言う感じだった。
『そうですか…明日は何時ごろご帰宅の予定ですか?』
「ちょっとわからないですね、傷の具合によってはもう一泊、ギリギリできるのでそのまま泊まるか、多少の無理をして帰るかになると思います。どちらにしてもお昼過ぎに判断しようかと思っています」
彩乃からの質問にさらっと答えたが、あとになって咲夜は「何かあるんじゃないか」と感じ、お昼ごろと言ったのを少し後悔した。だが、実際午後になってみないと傷の痛みがどうなるかわからないので、やはりお昼過ぎ…おそらくはもう一晩の宿泊になると感じていた。
『わか りました。一週間も連絡できなくてすみませんでした。本当にありがとうございました。おかげで私の方は傷一つなく済みましたし、そのおかげで仕事の方にも 支障をきたさずに済みそうです。…身代りになってもらったみたいで本当に申し訳ありません。…明日、また連絡していいですか?』
丁寧に彩乃が礼を言ってくる。この時点で、実家に礼の品を持ってくるのではなく、今のこの場所に礼の品を持ってくると感じた咲夜だったが、それはそれでしかたない、受け取らないだけにすればいいことだと感じながら彩乃のことばを聞いていた。
「身代りなんてそんなたいしたことはしていないですよ。…連絡は構いませんよ。出られなかったら留守電に落ちるので、メッセージを残していただければ」
そんな電話でのやり取りをしたのち、咲夜は眠気がさしてきて、そのまま翌朝まで寝ていた。
水無月咲夜と桧並彩乃/
翌日。
9:00頃 チェックアウトした咲夜はそのまま車の止まっている駐車場に向かう。すぐに帰る気はないし、いくら何でも彩乃の電話を無視して帰る気にはならなかった。傷 はズキズキから比べればツキンと針で差すような痛みが時々あるくらいにまで減っていたが、その一回が意外に痛く感じていた。いる場所がないので、車の中で 昼間は寝ているか、どちらにしても一回料金を払って駐車位置をずらさないと、二日以上は駐車禁止の規約に引っかかるコインパーキングだったので、移動が余 儀なくされた。
とりあえず車を近くの別の駐車場に移動させて、外に出る。駅ビルの地下の駐車場だったのでビル内をウロウロしながら、昨日言っていた彩乃からの電話を待つことにした。そして、11時くらいに彩乃から電話が入る。
『おはようございます、水無月さん。傷、まだ痛みますか?』
「あ、おはようございます。昨日の連続的なズキズキは消えましたけど、ちょっとした刺激から傷に響く感じで意外とそれはつらいですね」
いくらか落ち着いたのか、彩乃の声は昨日のそれよりも元気そうに聞き取れた。場合によっては暗がりなどの人がトラウマになって夜が歩けなくなるなどのこともあったりするからだ。実際に夜になってみないとそのトラウマが発生するかはわからなかったが。
『いまはどちらに居ますか?』
「〇〇駅の駅ビル内です。帰るまでに何かあると嫌なので、今晩もこちらに泊まることにしました」
咲夜はもう、嘘を言っても相手は色々とからめ手を使ってくるんだろうと覚悟して、下手な嘘をつくのをやめる。
『今日のお昼くらいに一回お会いできませんか』
「…大丈夫ですよ」
『あ、駅は動かないでください。こちらから行きますので。また、着いたら電話します』
業務的に彩乃は電話をしてきている。と言うことは、少なくとも彩乃一人ではなく、彩乃の上か俗に呼ばれるマネージャーが同行すると感じられた。
「わかりました。駅近辺をウロウロしてますね」
『それと…あの』
「…何でしょう?」
咲夜が返事をしたら、突然元気に受け答えしていた彩乃の声がトーンダウンして、小声になる。なにかあったのか、何かを言うのか、と言うことを咲夜は予想してていた。
『これからも、プライベートで電話とかメールしても構いませんか?あ、アドレスとか携帯の番号はこの後、送りますので…その番号、友達専用で持ってるんですけど、あまり使わないので、水無月さん用にも使えるかなと思って』
突然の申し出で、咲夜は一瞬何を言われたかわからなかった。だが、自分本位で、都合よく解釈すると、どうも好意を持たれているかのようだった。
「…別にかまいませんけど、メールとかしている暇はあるんですか?」
『はい、大丈夫です。じゃ、この電話を切ったら番号とメール送りますね』
電話 が切れて、しばらく待つと、昨日登録してもらったアドレスからメールが届く。中をみると全然違う番号と、彩乃の名の入ったいかにも個人用のアドレスが記載 されていた。咲夜は駅ビル内の休憩所で彩乃から送られてきた、プライベートだと言う電話番号とアドレスを登録した。
そして、11時ころに彩乃から連絡が入り、咲夜は駅前ロータリーでわかりやすい場所で待つことにした。その5分後くらいに、彩乃と車を運転しているマネージャー長谷川女史がいた。
「乗ってください、お昼まだですよね?」
彩乃はそう言って、うしろの席に咲夜に乗るように促し、彩乃と咲夜は並ぶように車に乗った。
「本当に助かりました。…でも、突然、うしろに隠れてしまってすみません。隠れなければ刺されることもなかったんですものね。私の方こそ巻き添えにしてしまって・・・」
「いや、巻き添えなんてそんなことはないですよ。あの場で一番近くにいたのが俺だったと言うだけの話ですから。そんなに礼ばかりされてしまうとこちらも困ります…」
彩乃がしきりに礼を言うが、言われる咲夜の方もなんだか、礼ばかり言われて悪い気分はないもののどうもむずむずとかゆい気分が出てきた。
別室のあるうなぎ屋/
日本 家屋のうなぎ屋。奥にいくつか個室に分かれた部屋のあるところで、一応老舗を名乗っているようだった。彩乃のマネージャーはここの顔見知りのようで従業員 にも慣れた様子で挨拶して、奥座敷にやってきた。そこで、マネージャーが持っていた比較的大きな袋を彩乃は受け取ると、そのままマネージャーと思われる人 は姿を消す。
彩乃は上座に咲夜が来るように促す。
「あの・・・礼はいいとは言われましたけど…エイミープロダクションとしても私個人としても、お礼させていただかないと、傷の代償が出来ないです。なのでこれ・・・」
そう言いながら彩乃は咲夜に大きめの袋を手渡す。
その袋にはある某有名メーカーの靴の箱二つが入っていた。
「…一 足は血で左のくつに血がついてしまったでしょう?なので、代わりというわけではありませんが、同じ靴を用意しました。履き替えてください。もう一足はお礼 です、気に入っていただければと思うんですけど。…あまり高級菓子とかを用意しても水無月さん、受け取っていただけないと思ったので、靴にさせていただき ました。…もう、先ほどまで履いていた靴は処分してしまったので、この靴履いてくださいね」
初め 咲夜は「処分してしまった」の意味がよくわからなかったが、ふと考えると座敷に上がらされて靴を手渡された。と言うことは多分、脱いだ靴は先ほどマネー ジャーと思われる人が持って行ってしまったと考える方がスマートな気がした。「やられた」と咲夜は考えるしかないが、もう処分まで手が回ってしまったこと を考えるとこれ以上無駄なあがきをしてもだめだなと思い、その靴箱を開ける。先ほどまで履いていた靴と全く一緒の色の靴が入っていて、サイズも咲夜のもの とおなじものだった。もう一足はメーカーの違うスニーカーだが、咲夜の好きなハイカットのスニーカーが入ってた。
「箱と袋はこちらで片づけますね」
彩乃はそう言って、開けた靴の箱と袋を手早くまとめる。
ちょうどその頃、うな重が到着する。
「食べてください、お昼ご飯と言うことで。こちらは礼とか言うつもりはないですから。気になるようでしたらお金、払っていただいてもかまいませんよ」
冗談めかして彩乃がそう言ってうな重の蓋を開けて早速とばかりにパクつき始める。もう、この場所に来た時点で咲夜は何を言っても飲み込まれるだけだとおもい、腹をくくって、目の前のうな重の消費をスタートした。
桧並彩乃と携帯/
例の通り魔事件があってから三週間ほどが経つ。
彩乃は咲夜にSNSで礼ではなく話をしようとしていたが、こういう時に限って仕事が忙しかったりするようだった。この三週間、彩乃は部屋に数時間寝るために帰っているだけの日々だった。
「ふう、怒涛の仕事ラッシュも一息か」
今日 は雑誌の専属モデルを務めている彩乃が、新作の服の撮影であるスタジオに来ていた。だが、その撮影も午前中には終わり、午後を含めて三日半の休みがもらえ ていた。休みのことを考えると何となく顔がゆがむ感じがする。それは周りが見てもそうで「なにを想像しているの?」とか「可愛い顔が崩れるよ」などと言う 声を何度となく言われた。
(でもぉ、命の恩人に対して、普通に接することが出来るなんて・・・うふふ)
彩乃はそんなことを考えながら、まず先に個人携帯からメールだけを送っておいた。
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咲夜様
先日助けていただいた、桧並彩乃です。
今日まで連絡が出来なくて申し訳ありません、仕事が怒涛の如くラッシュでなかなか手が離せないでいました。今夜ですが、SNSで連絡してもよろしいですか?
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内容はいたってシンプル。と言うのも、彩乃自身あまり長い文章は書くのも読むのも苦手な部分があった。ただ、SNSを使ったやり取りであれば問題なくやり取りできるので、それをしたい旨をメールで送る。咲夜からは、「仕事お疲れ様、SNSでのやり取りはOKなので連絡待ってます」的な彩乃より短いメールが返ってきた。その時、控室で、まだモデル仲間たちのいてる中でガッツポーズをしてしまう。
「…なにかうれしいことあったの?彩乃」
「へ?あぁいや、何でもない。着替えも終わったし、荷物も持った。よし、お先に失礼しまーす」
その夜はお互いのないことを話しして、終わってしまった。
いくつかの疑問/
咲夜と彩乃はあの事件から数十回とEメールとSNSを 使って色々と話をしていた。また、何となく声が聞きたいときもあって、その時は直接電話で話していた。何となく、彩乃は自分の気持ちが揺れていることを考 えたりもしたが、あくまで咲夜は「お兄さん」であることと彩乃は考えていた。実際、咲夜からも「彩乃さん」と呼ばれはするが、それ以上のことは無く友達以 上恋人未満だと思っていた。
そんな時、ふと考え事をしていたが、その考え事がUnlimitedのメンバー数人の前で口に漏れる。
「…18歳差って、実際どうなんだろう?」
なにも意識しないで突然しゃべったため、彩乃自身も声に漏れていたとは思っていなかった。
「何が18歳差なんですか?」
メンバーの一人から突然聞かれて、彩乃はビクッと反応してしまった。
「は?私口走った?」
「ええ、『18歳差って、実際どうなんだろう?』って」
その場に居たメンバーが、その言葉にうんうんと頷いて見せた。「やばい」と感じた彩乃だったが、携帯で少しでも空いた時間が出来るとメールを作ったりSNSをしたり、それまではあまりスマホをいじっている姿を見ることは少なかった彩乃だったが、今は全く逆で何かあるとすぐにスマホ、しかもプライベートのほうのスマホを取り出して、笑顔で何かを打つ姿が目撃されて、噂にもなっていたと言う。
「げ、そんなに態度に出てきてるの?私」
自分 でそう言うまで全く無意識で行動してしまっていたらしく、メンバーたちは最近になって、気になる人でもできたんじゃないかとか言う噂までされているくらい だった。彩乃は汗をかきつつ、だが冷静になると、もう口を突いて出てきてしまったものだから仕方がない、構わないと言った開き直ったスタンスで、その場の メンバーに、肝心な部分だけ隠して質問する。
「年齢的に18歳の年の差ってありすぎな方かなぁ?」
彩乃はそう言って周りを見回す。メンバーは突然のことで何が何やらわからなかったが、「年齢差」と言うワードが入っていたことで、18と言う数字が年齢を示していることは理解できた。
「…年上ですよね?彩乃さんは23歳だから…41歳?んー、人それぞれじゃないんですかねぇ?でも、0歳児と高校三年生、と考えると、ちょっと離れすぎな感じもしないではないですが…」
「私はどちらかと言うと、歳の差はない方がいいので、18歳差と言うのは即行却下ですが」
「私はその人が外見相応の格好していてくれれば、年齢は気にしませんけどね。無理して若作りとかされなければ、と言う条件付きです」
「その差があって、相手が何もできないとか言うのであれば、それは問題視しますけど、普通に社会生活している分には問題ないんじゃないかなぁ?」
「…価値観の問題も入ってきますよねぇ。年齢高いと問題抱えていたりもするかもしれませんし。逆に彩乃さんがその方に依存してしまうことだってありますよね?」
「なにより、それだけの年齢差と考えると、先に逝くのはその相手の方と言うことだし、なにか…体のガタが来るのもその相手の人が先ってことになるからね、それはきちんと覚悟すべきだよ?現段階では」
など、色々と意見が出てくる。彩乃はそれらを聞き、ふーむと考え込む。
「家計は私だけど、主夫するのは男の人、と言うのはどう?」
質問ついでにメンバーに引き続き質問してみる。
「…家計は、ってことは、基本男の人はヒモみたいな人ってこと?だとしたらやめた方がいいような気がするなぁ。そのうち、何もしなくなっちゃうのがオチだし、お金だけをたかられることにもなりそうだしね」
「だけど…男性に丸投げでなくて、彩乃さんも一緒に家事分担できていれば良いんじゃないかな?」
「…私は本当に好きな人だったら、ヒモでもいいなぁ。必ず傍にさえ居てくれれば」
「あー、それ賛成。だけど、完全ヒモって言うのはちょっとごめんだけど、そばにいて、自分を甘やかしてくれたり、疲れたときには共感してくれたりする場合はヒモでも何も問題ない気はするなぁ」
なるほどと感じる答えもいくつかは合った彩乃は自分の状態と気持ちを整理するのに時間をかけようと決めつつありながら、さらに質問する。
「…病気持ち、の場合は?」
「…そ の病気次第だよ、彩乃。身体、知的な障害だったら、コミュニケーションも取りにくくなるけど、普通にしていて問題のない病気…血圧が高いとか、メタボとか の生活習慣病なんかだったら、逆に彩乃が気を使ってあげるって言うのもありだし、そういうのは相手の人とキブアンドテイクなんじゃないかな」
「それはそうだね・・・外見上は何の異変もない人なんだけど…」
彩乃はそう言って再び黙り込む。
「それって、例の通り魔事件の時に助けてくれたって男性のこと?」
メンバーの一人が鋭く突っ込む。が彩乃にとってはどこ吹く風で肯定も否定もしないで、明後日のほうを見たままでため息をつく。
「…重症ですよ、これって・・・」
メンバーたちがざわざわと騒ぎ始める。
「彩乃、単刀直入に聞く。その人のこと、好き?もし、同じ通り魔事件が起きて守ってくれて、けど死に至ったら彩乃はどうなっちゃう?」
Unlimitedの中でもリーダー格のメンバーが彩乃に質問する。彩乃がこのままでは肝心の仕事に身が入らないためだ。その質問を聞いた彩乃はいつの間にかつぅと頬に一筋の涙を流していた。それを見て、誰もが確信を持った。
「それは恋の病だよ。…頃合いを見て告白してごらん?断られるか、良い返事がもらえるかはわからないけどね。そこから先は彩乃自身の頑張りようだけだからさ」
言われて彩乃は涙をふくと、「よし」と気合を入れる。
「とりあえず今は仕事に集中しよう。ゆっくり考えるのは帰ってからだ」
と、復活したように見せたが、極論の質問をしたリーダー格のメンバーは、答えが怖いのか、自分が信じられないのか、彩乃の手が震えているのを見逃しはしなかった。
彩乃、帰宅/
今日 メンバーに言われたことの集約としては、やはり彩乃は咲夜に気があると言うこと。そして、自分でも気づかないうちに、咲夜のことを考えると涙はでるし、状 況によっては咲夜に対する否定意見をする相手に怒りも出てくる。今に至っては通り魔自身に憤怒の感情しかなく、咲夜を傷つけたことがどうしても許せるよう な状態ではなかった。
「頃合いを見て、告白してごらん?」
そう言われた彩乃だったが、なかなか一歩が踏み出せないのもまた事実で、告白となったときにどうしたらよいかとか、色々と考えてしまう自分がいた。元々彩乃は引っ込み思案で人見知り。咲夜と普通にしゃべっていたのも驚くぐらいに実は緊張してのものだった。
「告白、と簡単に言うけどさぁ…どうしたものかなぁ?咲夜さんのこと…好き。それは間違いないし、多分咲夜さんを傷つけた犯人を傷つけても良いと言うのならばぼこぼこにしてやりたい…。だけど…咲夜さんは結婚していないと言ってももう41歳の大人だからな、私みたいなお子ちゃまが相応に扱ってもらえるものなのか・・・」
彩乃 はそう色々と考えては居たが、どうにも考えはまとまらない。だが、自分から動かないとそれっきりで終わってしまいそうなのはわかっていることだった。咲夜 から告白されるのが一番望ましいのだが、一般人である咲夜が、たかが通り魔から助けてくれただけで、しかも自分は傷を負ってい居て、告白などと言う状況に 持ってきてくれるかどうかはわからなかった。
「どうも事の真偽が確たるものにならんのだが…ばれても良くて、いいアドバイスを訊ける人物…あ、そうか、あの娘に聞けばいくらかははっきりするか」
そう言って彩乃はスマホから、高校時代に周りから恋愛相談ばかりを受けていた同級生に電話をしていた。今は大学に進学すると言っていたし、社会人一年生をしているはずだった。
『もしもし?この番号は彩乃か?』
「うん、…アドレスに登録してくれてないの?」
『いや、何度か大学時代で機種変しててその時に抜けちゃったんだよ。…で?UnlimitedのNo.2さんが私なんぞにどのような連絡でございましょ?』
相手は半分皮肉を込めて、彩乃に電話をかけてきた理由を訊ねる。
「…恋愛相談。いま気になっている人がいるんだけどさ、そのひとの心の中が全く不明なんだ」
彩乃はそう言って、現状を端的に報告する。
『で、その真偽を想像して欲しいと。相手はどんな人よ?』
「んー、41歳、独身無職彼女無し。ちょっと前に新聞に出た、通り魔事件ってあったでしょ?第一被害者が私で、それを助けてくれて、負傷したのがその男の人で第二被害者」
彩乃がそこまで話をすると、相手は『ああ』と短く返事をする。社会人だけに新聞は読んでいるようだった。
『で、相手とはいま、どんな感じで接してるの?』
「大体毎日SNSで短めのお話、必要な時は直電話、仕事の空き時間などでEメール。こっちから送ったり向こうから送られてきたりで、お互いきちんと返信付き」
彩乃は簡単に今は使える手段のほぼすべては使っていることを報告する。
『そこまでして、恋人ではない。だからどう言う風に考えているか知りたいと』
相手はそう言って、半分呆れたように彩乃に質問を返す。
「…もしかして…」
『もしかしなくても、それは多分、相手も彩乃のことは意識していると思うよ。ただ、邪魔をしているとしたら「Unlimitedの桧並彩乃」って部分だね。…だって、彩乃はもう好きなんでしょ?』
相手から言われると、途端に顔が熱くなる。相手の言うことは図星に違いないと自分でも確認できた。
『いっその事、告白しちゃえば?それとも女の方から告白するのは抵抗がある?』
「抵抗と言うか…断られたら嫌だなと」
『大丈夫だと思うよ。その彩乃の思いのたけをすべてぶつけてやれば。少なくとも両思いであることは、今だけの話で確定だね。…使える通信手段をすべて使ってるんだもん。…デートと称して出かけたこともあるでしょう?』
「まぁ・・・ある」
『うん、ほぼ断れられない。告白しなさい。以上』
いきなり、旅行の約束/
やは り彩乃の方から動くしか方法はないようだった。お誂え向きなのか、明日から三日は休みを偶然もらえていた。もし、決断するのであれば早い方がいい、彩乃は そう考える。咲夜を意識し始めている今の状況を考えると、とても咲夜からの連絡を待っている、もしくはゆっくり考えることはできないと思い始め、少し焦り も出てきていた。
先程相談時に言われた通りなら、多分相手(=彩乃)が芸能人で、忙しく動いている、空き時間が読めないと言うことで、率先して咲夜から連絡を入れてくれることはこの先も少ないと考えていた。
「思い立ったが吉日、か。よし」
そう呟くと、彩乃は咲夜に電話を掛けようとする。が、一瞬早く、咲夜から電話がかかってきて、彩乃は自分のスマホを慌てて落としそうになる。
『もしもし?彩乃さん、こんばんわ』
「こんばんわ、咲夜さん。傷の方はいかがですか?」
『おかげで痛みもそんなに感じなくなってきているし、順調な回復を見せてますよ』
滅多に咲夜からは電話がかかってくることがない。仕事の関係で彩乃が電話に出られなかった時のことを考えてなのだろう。それが今日は電話がかかってくる。いつもと同じような要件であれば、SNSで事足りるし、それで話は済んでいることだった。咲夜のこの行動で、咲夜側からの用事がある、と言うことが少し鈍感な彩乃でも理解できた。
『あ、あのさ。明日って暇ある?もし可能だったら、会ってほしいんだけど…』
そう言って、少し緊張しているのがわかる声で咲夜は彩乃に明日の様子を訊ねてくる。
「はい、大丈夫ですよ。ちょうど明日から三日は休み入ったので」
『よかった。いや、急ぎの用でもないんだけど、ちょっとこちらの気分が萎える前に話だけはしておきたいと思ったものだから』
咲夜はそう言って、彩乃に翌日に会いたいと言う理由を告げる。ただ、肝心の「合ってから何をするか」までは話をしていない。
『差し出がましいと思うんだけど、ちょっと遠出しませんか?可能だったら近場に旅行、なんてのを承諾していただけると嬉しいのですけど…?』
咲夜 はそう言って、できれば横やりの入らないような場所を指定してくる。いきなり旅行、と言われてびっくりしたものの、よほどのことが無ければ咲夜が変なこと をしてくるようには感じることは無かったし、咲夜自身が何かを企んで旅行を指定したと言うのは間違いないことだった。
「私が明日お向かえに行きます。△△駅が最寄りですよね。10時くらいに着くように移動しますのでそのくらいに駅まで出ていてください。私の車は青いBRZって車です。目標にしていただけたらと思います」
咲夜の話、彩乃の話/
翌日。10時。
彩乃は指定通り、バスの降車場所に来た。すぐに見つかったのか、咲夜が車に近づいてくる姿が見える。
「おはようございます、彩乃さん」
「おはようございます、咲夜さん」
挨拶を交わして、彩乃は車に咲夜を乗せると、とりあえず走り出す。
「とりあえず、どこに向かえば…?」
「ナビ、セットしますね。…一応、東名高速の方にお願いします」
そう言って、彩乃は乗り慣れているのであろうBRZをスッと発進させる。
「…彩乃さん、また格好いい車に乗っているんですね」
「…一目惚れしちゃったんです。だけど、AT限定免許なので格好く操れないんです。シフトチェンジもパドルシフトで真似事しか出来ないし。ただ、私の場合、あれこれするのは苦手なので、ATでパドルシフトの方が向いているんですけどね。…でも、旅行なんて思い切りましたね。仮に私が疑って断ったらどうするつもりだったんですか?」
彩乃はそう言ってあまり尻軽ではないことをアピールしてみせる。
「…応じてくれる自信があった、なんてのは勝手な思い込みかな?」
咲夜は意外に少し震えている声で彩乃に言う。
「咲夜さんの申し出を断る、と言うことは知らない言葉ですけどね」
ちょこっとしたを出して、彩乃が返答した。
しばらく走り、ある温泉地に誘導される。
「この辺は…伊豆半島の付け根?」
「湯河原ですね」
そんなことを言いながら、宿のある場所へと導かれるように、ナビの案内に沿って彩乃のBRZはその宿に入っていく。
宿帳などの手続きをして、部屋まで案内されると、部屋に上がりこみ、突然咲夜は正座をして、彩乃の方に向いて姿勢を正す。彩乃も少しびっくりして咲夜に倣って正座をして、向かい合う。咲夜が彩乃に話があるのが彩乃にも分かったので、敢えてその誘導に乗ってみる。
「なにかお話し、ありそうですね…私に関係したことなんでしょうか?」
咲夜はそう言われて、ビクッと軽く体をゆらせて、改まって正座をすると、彩乃の方を向く。まだテーブルは挟んでなく、入り口のあたりで靴を脱いでそのまま座り込んだような形だった。
「あの・・・」
彩乃が声をかけようとすると、小難しい顔を咲夜はしながら、だが心は決まっていると言いたそうな顔をして、彩乃に何か意見をぶつけるような覚悟をしているように見えた。だが、その「内容」と言うのがなんなのか、彩乃にはいまだによくわからなかった。
彩乃が不思議そうに見ていると静かに深呼吸をしている咲夜に気が付く。
「えっ・・・と。…今日会ってもらったのは、相談と言うか気持ちの整理と言うか・・・。彩乃さんはいま、お仕事って忙しいんですよね?」
「え? ああ、はい。時間も読めず、内容も統一していないので、どんな仕事が入ってくるかよくわからないのが難点なんですけど。それに、休み返上のことも多く、今 日から三日だけは完全な休日と言うことで、仕事関連の仕事はないんですが…普段だと、容赦なく緊急の仕事の連絡は入ってきます」
咲夜は覚悟を決めて話を始めたようだが、咲夜自身、考えが彩乃には筒抜けのような気がしてならなかった。だが、それでも意を決しなければ、何の進展も望めない。それは誰でもない咲夜が十分に理解していることだった。
少しの沈黙が流れる。二人とも正座をしていて、まだテーブルの場所までたどり着いていない。彩乃は何かを咲夜が考えていると言うことはわかっていたが、その内容は多分、と大体の予想は今はついていた。23歳の自分、しかも芸能界と言う特殊な世界にいて、一般の人がどのように話を隠したり対応したりするのかは正直見当もつかなかったが。
「…彩乃さんにとって、自分は命の恩人、もしくは助けてくれた恩人、ですか?」
突然咲夜から質問されて、思わず「はい?」と聞き返しそうになってしまった。だが質問の内容はしっかり伝わってきていた。
「…そうですね。命の恩人だとも考えていますが…今は、・・・失礼な言い方をすれば、どんな意見でも相談でも聞いてくれるお兄ちゃんみたいな存在です」
咲夜はそう言われて、少しだけ身体を揺らして、頷くような仕草を見せた。
「同じエイミープロダクションの方が、『彼になっていつもそばに居てくれるならば、ヒモでも構わない』と言う話をされている方はご存知ですか?」
色々と調べて、エイミープロダクションには「Unlimited」のほかに「SkyAngel」と言うグループがあり、そのSkyAngelのメンバーがそんなことを言って居ることを咲夜は知っていた。
「知っていますよ。その娘とも仲がいいんですけど…私も実は、その娘の意見には賛成なんです。ただ単なるヒモっていうわけではないと言うのはその娘と違うところなんですけど、わけあってヒモになるしかない場合はそれも容認できる、と言う感じのスタンスで居るんです」
咲夜が質問をすると、ヒモになってもいいのは条件付き、と言う理由だけのようだった。軽く息を咲夜は吐いて、また少し考えこむような仕草を見せる。
そして次の瞬間、咲夜は彩乃に土下座をしてくる。
「ど、どうしたんですか、咲夜さん」
「お願いがあります。彩乃さんにとってはお荷物になるかもしれません、何一つとして持っていない自分ですがお付き合させてください」
彩乃は慌てて頭を上げるように咲夜に言うが、一向に頭を上げてくれる様子がない。正座をして相対していた彩乃はその土下座を辞めない理由が、答えが聞けるまでは微動だにしないつもりで咲夜は土下座をしている、そのことに気付くまでにそう長い時間を要することはなかった。
ゆっくり彩乃は咲夜に近づくと、肩に手を当てて、下げている上体を起こすようにして、すぐに自分の顔を見せずに咲夜に抱き付いた。
「…咲夜さんはただでさえ鬱で苦労されているのに、なおも苦労を背負うんですか?」
「彩乃さんと付き合うことは苦労だとは思いませんし、数日間、ずっと考えた結果、このような答えに至りました」
彩乃がふわっと抱き付いて質問をしてくる。咲夜は一芸能人にこんな申し込みをするのはどうかと感じていたが、それでも「言わないで後悔」するよりは「言って後悔」したいと言うタイプの性格だったこともあり、こうして彩乃に告白をしていた。
「付き合って」と言う言葉を聞いて、彩乃は少しだけ、力を入れて咲夜に抱き付く。それがどう言う理由なのかはそんなに難しいことではない。だが、半分は咲夜はその彩乃の行動で諦めると言う決心もつけていた。
「私は…咲夜さんと一緒に居てすごく楽しいです。だからその時間は壊したくないです」
彩乃がそう言ったとき、咲夜は全身の力が抜けて、涙が流れる。根拠はないが結果的に振られた、そう判断したからだった。
「…私たち、色々とお話しとかしましたよね。…そのお話しの一つ一つが私には大切なものです。だから、もっともっといっぱい言葉を紡ぎたい…」
最後の判決を下される、その時が刻一刻と近づいている。それは咲夜自身が一番よくわかっていた。だが、それでも一縷の望みは捨てていなかった。そして、彩乃は咲夜に呟く。
「咲夜さま、まだまだ未熟で世間のことなど全くわからない若造ですが、色々とこれからも教えてください。こんな私でよかったら、咲夜さまの彼女にしてください」
咲夜 は突然何を言われたのかよくわからなかった。何より呼び方が変わっていることで、自分以外の誰かのことを言っていると勘違いするくらいに緊張していたが、 彩乃の言葉は間違いなく咲夜に告げられたもの、であるに違いなかった。ただ、そのままで硬直してしまった咲夜に彩乃はもう一度、耳元で囁く。
「咲夜さまの彼女にしてください」
そこ まで言うと、彩乃は少しだけ咲夜から離れて、お互い涙で頬を濡らしている状態を確認すると、咲夜のその涙顔に両手でそっと包み込むと、彩乃の方から口づけ をしてきた。咲夜は信じられないと言った驚きの表情をしたが、それが本当のことで、夢幻ではないことがわかると、彩乃の身体を抱き寄せるとぎゅっと彩乃を 抱きしめる。
「…彩乃さんが許してくれるならば付き合ってください」
「はい、よろしくお願いしますね、咲夜さま」
そう言う18歳下の恋人がさらに愛おしくなった咲夜は再び唇を重ねた。
恋人よりも許嫁?/
そのあと、お互いに涙を拭いて、洋服だけに崩れることはなかったが居住まいの変なところを整えて、食事の用意をしてもらう。
「…その、彩乃さん、なんで『さま』なんてつけて呼ぶの?」
「…咲 夜さまは咲夜さまですから。…メールや手紙で『咲夜さま』と書くようになってから、もし、咲夜さんからこんな申し込みが、もしくは自分が告白するようであ れば、そして、成就した時は『咲夜さま』と呼ぼうと決めていたんです。…実は私の中ではもう、『咲夜さま』の方がしっくり来ているんですよ、咲夜さま。少 なくとも、私にとってはさまをつけるくらいに尊重している相手だから、さまをつけている、そう思ってもらっても結構ですよ」
彩乃はそう言って咲夜の名前に『さま』と言う言葉をつけて話をする。
「そんなに彩乃さんにとってはすごいものでもないんだけどな…これでヒモ確定だし」
「…駄目ですよ、私は『彩乃』って呼んでください。これは絶対の約束事ですから」
彩乃はそう言って、自分たちの呼び名を決めてしまう。だが、咲夜にとっては彩乃を呼び捨てで呼ぶのがすぐには出来ない。その旨を伝えると「少しずつでいいですから」と言ってクスクスと笑ってみせる。
食事を終えて、何となく二人とも落ち着かない様子でいた。
「俺たち、付き合うんだよね?」
「そうですよ、咲夜さま」
それ だけを確認するだけで、咲夜はなんだか恥ずかしくなってくる。過去に付き合ったことはあるし、実際に過去の彼女とは行き着くところまで行っているので今更 恥ずかしく感じる必要はないのだが、なんか恥ずかしさが先に立ってしまう。それに彩乃の態度が、今までのそれと少しだけ変わったように感じ、それもなんだ かしっくりとこなくて落ち着かない原因の一つだった。
「…ねぇ彩乃、呼び方はそれでも良いけど普段の話し方は今まで通りにしようよ。でなくば、もっとフレンドリーにさ」
「うん、わかった。だけど、私は年齢とか社会経験なんかを重要視するから、そう言う話の場合とかはその状況でしゃべり方を変えるよ?」
「それは問題ない」
一番 はそのしゃべり方にあった。咲夜の方は場合によっては「彩乃ちゃん」と呼ぶようなまだ年下としてみている部分もあるので、状況に応じてしゃべり方を変える ようなことは滅多にないと思うが、彩乃の方については年齢が上と言うこともあって、色々な場面でしゃべり方を変えてくると言う。話題によってはそれも十分 問題ないことではあったが…「咲夜さま」だけは当分慣れそうになかった。
「所で彩乃さん、所属事務所の方は問題ないの?某グループでは恋愛禁止になっているじゃない。そう言った制限とか」
「…聞 いたことがないですね。ただ、メンバーの中では誰かとお付き合いをしている娘もいるようですし、なにか言われたら申告すれば大丈夫だと思います。…一応、 長谷川さんにはそれとなく話しておきますけど…多分、いずれはこうなるってことはお見通しなんじゃないんですかね?」
咲夜が訊ねると、彩乃もそんなに厳しく監視されているわけでもないと言うし、問題もないような話しぶりだった。
「だって、命の恩人になにも感じないと言うことはないでしょう?そう言う意味でも、桧並彩乃は少なからず水無月咲夜に何らかの気持ちを持ってしまっている、と言うことは予想すれば簡単に答えの出てくる事案だと思いますよ」
特別問題はないんじゃないか、それが彩乃の言い分だった。ただ、確かに恩を感じているうちにそれがきっかけで…と言うことは十分にあり得ることだと咲夜も感じていた。
どうしてもしたいこと/
告白して、二人は付き合うことになる。すると早速彩乃は咲夜に色々な話を持ちかけてくる。
「ねぇ 咲夜さま、色々とこれっからは二人でしていきたいんですけど…まず一番初め、咲夜さまに軽自動車は似合わないですよ。負担がご両親にかかるから、と言うこ となんでしょうけど…税金から何から、私が持つようにして、ご両親にかかる負担をなくせば、車も例えば住む場所も色々と変更ってできますよね?」
彩乃は第一に車と同居の話を持ち掛けてきた。
「んー・・・車についてはまぁ、彩乃の名義で買えばなんて言うこともないんだけど…」
ただ、現に一台、彩乃の乗るBRZが存在している。それにもう一台となると…
「多少の負担はかかりますが、一年のうちに回収できる範囲の物ですから咲夜さまはWRX/STiとかに乗っていただければそれはそれで済むと思うんです。税金などについては私が一括して受けますから心配無用です」
そう彩乃は言って胸を張る。
「…いや、今乗ってるアルトワークスでも十分事足りるんだけどね。スピード上限とガソリンタンクが小さい以外には乗っていても十分スポーティだし、マニュアル5速で、基本俺の欲しい車というのは十分満たしているし、何より税金面とかの維持費が小さいのもあるから」
「・・・そうか。単なるNAの軽自動車じゃなかったんだっけ、咲夜さまの車って。となると車の買い替えは意味ないか。大きい車ならBRZ、小さくても事足りればワークスって乗り換えればいいんですもんね」
最初は自分と同等か、それ以上の車に彩乃は乗ってほしかったところはあるようだが、今の咲夜が乗っている車もまだ5000kmも乗っていないいない新車だった。そのことを話すと、彩乃自身は乗り換えの強制の必要がなくなってくる。
「どちらにしても、色々なことの許可や承諾のために咲夜さまのご両親に一度会って、まずは同棲の許可を得るところから始めないとですけどね」
「一筋縄ではいかないかもよ?」
彩乃は比較的簡単に同棲の許可はもらえると感じていたが実際にその許可を得るとなると、一筋縄では行かいことの方が確立的に高いことを予想していた。
「それに、家族の元を離れて別の場所に住んで、鬱が悪い影響を起こさないかとか、主治医に聞かないといけないしな…まぁ、あの主治医だから論破するのはそんなに難しくはないと思うけどな」
咲夜は中途半端に答える。だが、彩乃はそんな咲夜の心配などどこへやら、実行することをあれこれと考え始めていた。
「一番の強敵はうちの両親だろうな、一人暮らししていて、鬱の悪化が感じられたから、実家に連れ戻したわけで…彩乃がどれだけ、鬱について勉強していて、どうすることが鬱病者にとって適切なのかと言うことを一から十まで説明して、説得する必要があるよ?出来る?」
咲夜はかかってくる言葉の一つ一つが想像できると言いたそうな態度で彩乃に話をしてくる。だが、彩乃はどこ吹く風で、「聞かれたことは逐一答えればいいだけですから」とだけ言って咲夜に半分の心配と半分の安心を与える。
「どちらにしても、咲夜さまのご両親と話をしてから引っ越しとか、車の話になりそうですね」
彩乃はそう言って、今まで以上に眼力鋭く戦闘態勢を整えた感じだった。
桧並彩乃の独壇場/
彩乃 が咲夜と二人で生活したいと訴えて二週間が過ぎる。その間、彩乃はもちろんのこと、咲夜も色々と地盤を固めていた。なんにしても、外で一人暮らしをしてい て今の鬱の状態になってきているのは間違いないことなので、それでまた外に出ると言うことを告げてどんな反応が来るかは何となくだが「引き留める」であろ うことがわかっていた。
た だ、主治医の言うところでは、環境がずっと同じ状態であると言うのはあまり良いことではないと言うのも言われたりしていて、主治医にはそのことを診断書と 言う形で出してもらっていた。彩乃の方も独学や芸能界で鬱になりかかった、もしくは克服した人に色々と話を聞いて鬱がどんなもので、どうするのが一番なの かと言うことを訊きまわっていた。
それからさらに数週間後。
彩乃の準備の整ったある日曜日、決戦の日となる。
丁寧に彩乃は挨拶をして、指示を受けた場所にちょこんと座る。
「実 は、咲夜さんのことでお話がありまして。もう数年ご実家に居ると言うことですが、あまり回復の効果が見られないと言うことをお聞きしました。それで、提案 と言うか…ひとつのパターンなんですが、住む環境を今の状態から変えることって出来ないかと言うのが一番の相談なんです…」
前置きもほどほどにすぐに本題に突入する。
彩乃の考えに咲夜の両親は難色をしめす。
「俺の方でも主治医とかカウンセラーとかに確認してみたんだけど、ずーっと一つのところに居ても回復する効果は認められないって言うんだよ。あ、一応、『主治医の意見書』なんだけど・・・」
その意見書については、現状の段階では回復の兆しが見えない、環境を変えてみるのも方法として挙げることが出来る。そのため仮に環境を変えることが出来るようであれば、試しに環境を変えてみるのも一つの手段である、と言うようなことが書かれていた。
単に 同棲したいから、そう言って手を回しているのではないか、と言う疑いもかけられたが、彩乃は「もちろんそれも理由のひとつです、が、お話しを聞く限りで は、自宅だとご両親に色々とご迷惑が掛からないように相当妥協している部分が咲夜さんにはあるそうです。けど、私ならばある意味他人ですし、気を使うほど には私の存在が邪魔にはならないと思うんです」と質問の本当の意義を答えたうえで、咲夜が気を遣わずにいられる場所を提供できると言うことを話す。
だが、自宅の近くで受けているカウンセリングや就労のカウンセリングについてはどうするのかと別の視点から切り替えてくる。
それも織り込み済み、とでも言うように口元を少し笑わせて、彩乃は言う。
「この ご実家、カウンセリングや就労のことについてお話ししている場所をひとつとします。それに現在の心療内科をひとつ。そうした時に、大体中間の場所に家を 持ってくれば咲夜さんの負担も減るのではないかと考えています。…実際は埼玉県南の方になると思いますが。私に限っては、新幹線通勤も許可してもらいまし たし、新幹線が使えれば小一時間程度で職場に付きますし、そこから各スタジオなどに移動できるような時間も確認できているので、その点においても、県中央 から県南のマンションなどで同居できればと思うのです」
彩乃はそう言って地図を出すと今の咲夜のいる県北、大体の予想がたつ県中央、それにプラスして、彩乃のオフィスも含めて、円で囲むと実家の県北が一番近く、次に心療内科、一番の遠い場所は彩乃のオフィスとなることがわかる。
「だけど、それにかかるお金だってただではないんでしょうし」
「その辺についても、私が何とかできるだけの稼ぎがありますからご心配なく。私の稼ぎで大人二人をカバーできる以上はもらっていますし、今まで趣味らしい趣味もなくて、お金の貯金額は結構あるので・・・貯金を崩さなくても生活はしていけます」
咲夜の両親が次々に質問してくるが、それを彩乃はどんどんと論破していく。
「それで咲夜がいい気になって仕事に付かない、なんてこともあるんじゃないの?」
「それ は就労センターと言うところで仕事を見つけて仕事はしてもらいます。在宅ワークも色々とあるみたいですし。今度、その就労センターとカウンセリングの場に お邪魔して、どんな話をされているのかと言うことを確認してきます。そのうえで、咲夜さんには無理なく復職のプログラムを踏んでいただければと思っていま すし」
と、ここまでは彩乃の一方攻撃で、咲夜の両親はそれ以上、質問も出なくなってきている。
「差し出がましいのは十分承知しています。ですけど、咲夜さんから話を聞く限りでは、どうしても『両親』と言うくくりが憂鬱だったり気が滅入ったりするようですし、逆にTVなどでもみられるときと見られないときとがあるそうですが、どうしても食卓の場ではTVはつけてしまうと思うんです。それを考えても、TV無しでの食事とか、ある意味での『監視の目』のない場所でどのくらいリラックスできるかと言うのは見てみる必要があると思います。わたしは咲夜さんよりずっと年下ですけど、その年下と言うのが咲夜さんにとって新しい考え方を伝えることもできると思います」
彩乃はそう言って、咲夜の両親の説得をしてみる。
「…彩乃さん、あなたが考えるよりも鬱は大変だと思うのよ。私たち親子でもコミュニケーションをとるのが大変なのだから。それもクリアできるの?」
「もち ろん完全にクリアは出来ないと思います。ですが、気分によって、散歩を一緒にしたり、なにか食べたりとか言う、出来そうもない部分を私がフォローします。 お金についても、単にヒモみたいだから渡すと言う訳ではなくて、理由ありきでお金の捻出を必要とするようにしていければと思っているんです。…同居がした い、それも確かにあるんです。けど、その同居の中で、年下から受ける刺激と言うのもあると思うんです。なので、同居をお願いしたいんです」
彩乃が言うとこれ以上話しても、すべて彩乃に逆にそれに従う答えと言うのをきっちりと出されてしまう。それを感じた咲夜の両親は最後に一つ、彩乃に釘をさす。
「途中で『出来ませんでした』と投げ出すのはなしよ?と言うことは結婚を前提に付き合って、回復出来なくてもいつかは結婚して、生活すると言うことになる。それも承知の上で、これらの意見をいっているのね」
「もち ろんです。付き合うときに結婚を前提に、というのは、お互いが確認したことですから。途中で投げ出したりもしません。あと、カウンセリングの後などはきち んと報告してもらうために、場合によってはご実家に泊まっていくと言うことも考えています。…お願いします。咲夜さんの環境を変えてみると言うことも含め て、同居の許可をください」
彩乃の『咲夜の理想像』/
彩乃は咲夜の両親を論破して、引っ越しなどは家が決まったら順次していくと言うことで話がついた。これで彩乃がクリアしたい部分がクリアできたことになる。
「…でも、同居を断固として実行に移したいと言っていたけど、一番は常に一緒に居たいから。んじゃあ二番目からは?」
咲夜もその辺は彩乃から直接聞いたことはない。彩乃がどう感じているのか、咲夜は気になる。
「んー・・・色々と咲夜さまのイメージってあるんですよ。高貴な紳士とか、41歳を感じさせない外見とか、無職と言いつつ実は「昔取った杵柄」で色々とできるとか。一番は私が見ていて、誰より格好いい存在であってほしいものですけどね」
彩乃はBRZを操りながら色々と考えをめぐらす。
「ああ、あと、外見がどうであれ、性格ブスではなくて、何時でも紳士ってところは今もできているので、そのままでいてほしいものですね」
彩乃には、色々な咲夜の姿が浮かんでいる様だったが、中には出来ないものも含まれるのではないかと感じざるを得ない部分も存在していた。咲夜は「ふーむ」と思わずうなって、彩乃の言う想像図のようなものがどんなものなのかを考えてみる。
だが、彩乃は何を考えていて咲夜がうなったかまでよくわかった気がした。
「咲夜 さま。別に特別なふるまいをしてほしいと言う訳ではないんですよ。それに、そんなことをしたら、折角兆しの見えてきた鬱の方をまた、逆戻りにさせてしまい ますから…。私が望むのは自然体で、『彩乃ちゃん』位の言い方で頭をくしゃくしゃするような普通の咲夜さまで全然問題ないんです」
彩乃はそんなことを言うが、一度「理想像」のようなものがあると言われてしまうと、それをどうしても意識してしまう部分が出てきてしまう。それを考えるとやはり「ふーむ」とうなってしまう咲夜がいて、そんな悩んでいる(しかし本気では悩んでいない)咲夜の様子を見て、彩乃は笑みを浮かべていた。
「一つずつ、咲夜さまに居てほしい場面、言いましょうか?」
「いや、そこまでは言わなくても良いけどね」
彩乃が提案をするがそこまで言われてしまうと、今度はその理想にぎちぎちに縛られて身動きが取れなくなってしまうのだろうから、普段通りに過ごしていればいいんだろう、そんな気持ちでいた。
…よく考えると、隣でまだ一年程度しか納車後経っていないと言うBRZを巧みに操るのが、単なる彼女ではなくアイドルユニット「Unlimited」の実質No.2である桧並彩乃であることを考えると、咲夜自身すごいことなんだと改めて感じていた。
「あ、ねぇ彩乃さん」
「…彩乃、ですよ」
「時と場合によってね。…で、例えばライブ…と言うかUnlimitedはコンサートが多いわけだけども、そのコンサートに裏から入れたりするの?」
咲夜はバックステージに入れるのかの確認を取る。んー、と言いながら彩乃は考え込むが少し難しい顔をして、視線は前を向いたままで返答が返ってきた。
「少し、バックステージパスを得るのは難しいと思います。誰でも、と言う訳ではないですし、実際バックステージに入るのも、例えばUnlimitedの桧並彩乃に、と言って入れる人と入れない人が居たりするんですから。申し訳ないですけど、咲夜さまの場合、それこそ長谷川さんを初めとしたみんなが顔パスできるようになるまでは裏口の開放をお願いしても無理だと思います」
彩乃は少し残念そうに、そしてさみしそうに返答をしてくる。
「なるほど、それは了解だよ」
少しの間沈黙が流れる。だが、別に気まずい沈黙ではない。お互いのことがまだまだ分からないため、何をしゃべったらいいのかわからないと言うのが正しい。
「ところで今は何処に向かっているのかしら?」
「ちょっと二人で行きたいところがあって。と言うのはさっきの地図で指し示したところなんですけどね。いい部屋はないかなって探したくて」
彩乃は色々と考えて移動していた。だがまだ、色々と気の早いところもあるので、それらを止めに咲夜は入るが、「確認だけ」と言いつつ、表情はすでに「決めてしまって」実際に早く二人暮らしがしたいと言っているようなものだった。
いよいよ同棲/
埼玉県のほぼ中央部。新幹線の停車駅まで歩いて十数分の物件に咲夜と彩乃は居を構える。
荷物の搬入は終わっていて、荷物の整理から始めることになる。だが、なかなか思うように収納が使えなかったり、荷物が多かったりで、部屋数も4部 屋の部屋を見つけて入ったわけだが、彩乃が今後の活動で入用になるかもしれないと衣装を色々と買い込んでいて、衣装部屋を一部屋確保することになる。ほか に寝室、物のあふれている彩乃の部屋と、特別何もない咲夜の部屋で、それぞれの部屋が埋まってしまう。リビングは新調したTVや収納ラックなどを使って、物を多々置けるようにしていたし、咲夜のプライベートPCについては自室よりリビングに置くことになった。これで彩乃のPCが咲夜の仕事用PC一台とプライベートようPC一台が並び三台のPCが綺麗に収納される。それでも彩乃が小物好きと言うことでその棚もたちまち埋まってしまう。
「おーい、大半が彩乃の物だぞー?」
「す、すみません。なかなか捨てることが出来なくて。でもこれでもやむなく衣装の半分はリサイクルに出したり、置物などもリサイクルショップに売ってきたんですけど…」
「まだ衣装は売れそうだけどな。…なぁ彩乃、今後Unlimitedを卒業して、歌を歌って行くの?女優を目指すの?」
突然、咲夜から彩乃に質問が飛ぶ。彩乃はんー、と言っててへへと笑いながら咲夜の質問に答える。
「歌手と女優の両立、と言うのは無理ですかねぇ?」
「それプラス専属モデルな。…彩乃のやる気があれば出来ないことはないと思うけど…実際のところはどうだろうな。彩乃自身の頑張りとマネージャーさんとのスケジュール管理が必要だな」
咲夜は片づけをしながら、腰に手を当てて咲夜につぶやく。
「…でも、そうしたら咲夜さまとのスキンシップがはかれなくなっちゃいますぅ。それは寂しいですよ、ご主人様ぁ」
最近は自分の中にいると言うキャラクターをコロコロと使いこなして、出来ることとできないことを訴えてくる。だが、忙しくしているのは誰でもない、彩乃自身だったりするので、咲夜はなんとも言えない表情を浮かべた。
「これが芸能人と付き合うってことで、すれ違いの発生するところか」
ぽつりと咲夜がつぶやくと、いきなり彩乃は咲夜に縋り付いてきて涙目で訴えかける。
「わ、私たちは多少のすれ違いがあってもきちんと話し合いで解決して、いけますよね、咲夜さま」
「そりゃー、まずは話し合いが最初だからな。それにケンカはなさそうだし…彩乃も俺も自分の中にとどめちゃいそうな性格だからな。話しをするときは隠し事なく話す努力はお互い必要だな」
咲夜が言うが、彩乃は腰のあたりに縋り付いて、咲夜の腹部に顔をうずめていた。
「…聞いてた?」
「はい、咲夜さま」
最近は妙に人懐こくなっている彩乃が、仕事中はどんな感じなのか不思議でならなかった。だが、メンバーから何かが変わったとか、様子が変だとか言う話は出ていないと言うのが彩乃自身の言葉だった。
「一休み、彩乃」
そう言う咲夜に、ぴょんと飛びつくように、背中に張り付く。
「…Unlimitedのメンバーさんたちには、付き合いしている人がいる、的な話はしたりしているの?」
「ううん、もし何かの拍子にそれが知れて、突然『桧並彩乃、Unlimited脱退』なんてことないように気を付けている。その辺、自分で言ったりして大丈夫なのか、一応マネージャーに探ってもらってはいるけど、一応内緒と言う方向で今は居るよ」
彩乃がそう言うのだから、少し自分は動くことは自重した方がいいのかなど考えたりするが、当の彩乃は特別そんなことをしなくても大丈夫だと言う。それ以前に、駐車場を借りたが彩乃のBRZと咲夜のアルトワークスは並ぶことは無く、離れた場所に止まっているのでとりあえず外出についてはそんなに難しいことはなかった。
家具や家電など新規で買ったもの、今まで咲夜と彩乃が使っていたものを整理すると、咲夜の方は意外と少なく済み、彩乃の方が荷物が大量になっていた。
「よく 前のマンションにこれだけ入れたなぁ。衣装絡みは彩乃達が使えるようなリサイクルに回せるお店とかあるだろ?本当に思い入れのあるもの以外はできるだけさ ばこうよ。でないと、一室使ってもあふれ出てきちゃう。キャラクターに合わせた衣装とかであれば取っておいても良いけど、制服系は再び使うこともないんだ ろうけど、それ以外はさばいちゃおうよ」
咲夜が言うが彩乃は何となくそれは避けたい気分だった。だが、実際問題確かに衣裳部屋ようにと確保した一室はもうあふれかえっていた。
とりあえず、彩乃の片づけが出来たら、大体収めることが出来て、生活がリアルにできるような部屋になる。
「ここで咲夜さまと一緒の生活ができるようになるんですね~」
「そうだな。…少しずつまだ片づけは必要だけど…業者をまともに使わないで移動できたのはラッキーだったなー。彩乃の前の部屋も早々に退去できたのも良かったし」
なんだかんだと言いつつ、結局は彩乃の衣裳部屋だけが段ボールと衣装の積み上げだけが残っていたが、それ以
外の部屋は基本新調することでずいぶんさっぱりとした部屋になる。特別このマンションが、と言うわけではないが、何となくデザイナーズマンションのような
独特の部屋になった。
普段のUnlimited/
「ヘ?この前引っ越したばかりじゃない」
彩乃が何となくメンバーで部屋の話をしていたので、「また引っ越しちゃった」と言って周りを驚かせる。
Unlimitedで彩乃は何となくマスコットとして扱われる。ぶりっ子ともキャビキャビしているとも違う、強いて言うならばゆるキャラ的な位置づけのキャラクターを持つ。そもそもUnlimitedは10人をメインメンバーに、バックで同じく10人 がダンス専門でメインメンバーと絡んでくると言う、全員が歌とダンスを担当しているわけでもなくて、ダンスグループと、歌&ダンスグループに分かれてい て、彩乃はある意味「トロい」ところがあるが、センターの片翼を担う重要メンバーだった。だが、基本的に二つのグループに分かれているから、楽屋までが二 つになっているかと言うと、20人が一つの大部屋に詰め込まれているような状態だった。そして、今日はこんな人間たちのメンバー、昨日はこっちの人間が集まったメンバー、と言うように、メンバーたちはあれこれ話題によって人数も参加メンバーも色々だった。
そして、今日彩乃が参加しているのは、自分の部屋の話をしているグループ。
「そう言えば買い取った衣装ってどうしてるの、みんな~?」
何となくスローなしゃべり方で彩乃がみんなに訊ねる。
「私は制服以外は買い取らないからなー。ドレスは未練あるけど、次にどこで着るかわかんないし、授賞式なんかになれば新しいドレスが新調されてくるからねぇ。彩乃はわざわざ買い取ってるの?」
「んー、わざわざってわけでも無くば、全部ってわけでもないけど、お気に入りのドレスなんかは買い取っちゃうのがあって、いま、衣装室用に一部屋を確保したんだけど、なかなか入りきらななくてこまってるの」
「買い取らなきゃ済む話じゃない。それこそ制服だけとっておけば。観賞用にCDは確保しているんでしょう?」
「うんー、してるけど~?」
「だったら制服とリンクさせていればそれだけで十分じゃないの。ドレス系は写真屋とかに売るのがベスト、買い取った場合はね」
そう言われて、部屋の中で咲夜にドレスはすべて片付けよう、的なことを言われたことを彩乃は思い出す。それを聞いて、みんなドレス系は買い取ったりしないでいることを再確認する。
「だけど…なんかドレスも勿体ない気がするんだよなー」
「それは彩乃の価値観の問題だね。…だけど、ドレスなんて残った物はいつ着るの?それこそ結婚式だってレンタル借りる予定であれば意味ないし、実際服の流行り廃りは早いからね、今はいい形のドレスでも、後々着ると古着感が出てきたりするもんだよ?」
言われて彩乃は「ふーむ」と人差し指を顎に付けて、考え込む。
「流行り廃りはドレスでも出てくるものなのかぁ。と考えると、今は今で思い出だけで売るのが賢そうだねぇ~」
周りの意見を確認して、彩乃は最終的にはドレスの類もリサイクルの形で処分する方向に考えていくことにした。
三日間の彩乃のOFF日/
「咲夜さま、明日から三日のオフが頂けたんですよ。…ここのところ、引っ越しの片づけが中心でなかなか出かけられなかったので、明日から一泊か二泊でお出かけしましょうよ」
仕事 から帰ってきた彩乃が嬉々として咲夜に告げる。咲夜は夕食の支度でキッチンをウロウロしていたが、咲夜が帰ってきたのを確認すると、玄関までエプロン姿で 彩乃を迎えに行く。お決まりは迎えに出た咲夜に対して、靴を脱いだ彩乃は咲夜に正面から抱き付いて、キスするところから二人の夜時間がスタートする。
「三日の休みかぁ。…四日目の仕事の内容は確認してきた?」
「一応、レッスンになっていますが、多分収録とかの仕事も合間に挟んでいるような感じです」
その情報を聞き、咲夜は色々な考えを巡らせる。その中でも、元々付き合っていた頃から行けてない場所がるのを思い出す。
「彩乃、一晩目は温泉なんてどう?で、二日目に行きたいところがあるんだけど、明日一日はどこか探していくとして、二日目の昼にそこに行きたいと思っているんだけど」
「…じゃあ、一泊目と二泊目は違うお宿と言うことですか?」
「宿が取れればね」
そう言うと咲夜と背中にくっついている彩乃はリビングに行く。そこにはお誂え向きに旅行用のドライブマップが置いてある。なかなか彩乃がまとまった休みが取れないと言うこともあって、雑誌を見るにとどまっていたのだが、ようやくその雑誌が真価を発揮するときが来た。
「初めは湯河原辺りで一泊。そこから彩乃に内緒の場所に向かって、その近くで一泊。で伊豆半島をぐるっと回って帰ってくる、と。…強行過ぎるかな?」
咲夜が完全に明確になっていないスケジュールを大雑把に彩乃に説明する。
「内緒の場所は記憶の上書きですか?咲夜さま」
「いや、ここまでは行ったことなかったから、初めて行く場所だけど、多分彩乃は喜んでくれるとは思うんだけどね」
そう言うとそのドライブ雑誌をおもむろに開き、湯河原辺りの宿や、謎の宿の部分を彩乃にみせないようにページをめくって宿探しを始める。
「咲夜さまー、お夕飯てこのサラダを盛りつければ終わりですかぁ?」
突然夢中に雑誌とにらめっこを始めてしまった咲夜に彩乃はキッチンに行ってそこに色々と皿に分けられた完成品を見て、確認する。
「ああ、ごめん、そのサラダ盛りつけて配膳すれば終わり」
「私やりますから、宿情報などを調べてみてくださいね」
基本、家事はどの状態であっても分担作業、と言うのが咲夜と彩乃の約束事だった。咲夜はペラペラと雑誌をあさる間に、彩乃は着替えもそこそこに夕食の配膳に取り掛かる。
適度な場所があったのか、今度の咲夜は雑誌を見ながら電話を始める。「どの辺に行くんだろう?」と疑問持つ彩乃だが、その辺は咲夜に一任しているところがあり、隠れて付き合っていた頃でも比較的咲夜は良い雰囲気の宿を用意してくれたので、その辺りは彩乃も信用していた。
彩乃が配膳を終えるころには、咲夜の予約等の下準備も終わり、「まずは飯だ」と言う咲夜の声で、二人向かい合って「いただきます」と言い、食事を始める。
「そのミステリーツアー部分は咲夜さまが以前から行きたい場所だったんですか?」
食事をしながら、下品にならないように小さな口を開けて食事をしながら、口の中が空になってから彩乃は咲夜に問いかける。
「ん、初カノのころから行きたい場所だったけど、成就出来なかったからもう過去はいいんだ。今は彩乃と一緒に行きたい。それに、彩乃と別れることはまずないと思いたいし…」
そんなことを考えながら、彩乃に行く先のヒントのようなものを咲夜が言う。「ふ~ん」と彩乃はこれ以上訊いても答えは出ないと踏んだのか、質問はそれ以上で止める。
「車はもちろん咲夜さまの車ですよね」
咲夜の車。この場所に引っ越してきてから、彩乃のBRZに並び、咲夜のマニュアル仕様のアルトワークスが一台地下駐車場に止まっている。
彩乃は意外と強引な部分と、だけど少し弱気な部分が混在しているような性格で、自分では人見知りの引っ込み思案な部分があると自己分析していた。
「BRZならば交代で運転できるけど…?」
「私は咲夜さまの横顔とその横顔越しに見える風景が好きです」
そう言って自分で買ったBRZは出さないと断言してくる。その時点で、咲夜が運転を任されたと言うことになる。咲夜自身はマニュアルシフトで的確に運転するのが楽しいと言う感じで、車の運転については丁寧に運転するところがあったが、彩乃に言わせるとCVT車に乗っているみたいだと言う。ギアの切替がすんなりと出来ている、と言う彩乃なりのほめこどでもあった。
記憶の上書き/
まだ、咲夜と彩乃が別々に住んでいた時。
ドライブと言うことで言った場所がある。大体、タブレットをナビ代わりにダッシュボードに乗せて、アルトワークスで軽快に走っているが、その話の中で「記憶の上書き」と言う単語が咲夜から出てきた。
「記憶の上書き…ですか?」
話を聞いていながら、普段は咲夜は使わない単語が出てきて、彩乃は思わず聞き直した。
「うん。…彩乃は過去に付き合ったことは…」
「んと、ないことは無いですけど、高校一年生くらいでまだ手をつなぐのがやっとの時期で。そうこうしているうちにUnlimitedのオーディションに合格してしまって、当時の彼…と呼ぶには物足りない人とは自然消滅でした」
彩乃が思い出しながら、今まで何でそんなに恥ずかしいことだと感じていたんだろうと今更考えたりしていた。
「俺は過去には二人彼女って呼べる人はいたんだけど、今となってはあまりいい記憶でもないんだよ」
咲夜が何となく遠い目をしながら運転している様子を彩乃は横目に見ながら、話の続きを待つ。
「で、悪いことばっかり覚えているってことは彩乃にはない?俺は…悪くもないんだけど、初カノと元カノとも、良い思い出もあるんだけど悪く感じちゃうことがあって。…例えばこれから行く場所は初カノと行ったんだけどどうにも『行った』ことがあまりいい気分でもなくてね」
咲夜はなんだか自分でも何で嫌な雰囲気に引き込まれていくのだろうかと感じながらワークスを運転していた。
「そん な時に何かで聞いたセリフが『記憶の上書き』って言葉で要は写真のように残っている記憶を、今で言えば初カノの部分を彩乃に置き着かえちゃおう、と言うこ となんだけどね。だから彩乃とは、俺が言ったことのある場所でも、出来たら一緒に来てほしくて。それで記憶の上書きをして、過去のことを極力忘れよう、っ てことなんだ」
咲夜の説明に、彩乃は何となく「水無月咲夜」と言う人の形が見える気がした。
「咲夜さんは繊細な方なんですね。…多分、だから過去のことを良くても悪くても忘れられない。だから色々な手段を使って『辛い』と思う部分を実際に上書きしていかないといけないんですね。わ私も微力ながら、咲夜さんの記憶の上書き、お手伝いさせていただきますね」
我ながら不器用。咲夜はこの時そんなことを思わずにはいられなかった。
二泊三日のお忍び旅行/
「さーて、今日から三日はいい天気らしいぞ、と。…彩乃がかわいそうだけど、そろそろ出る準備がしたいな。遅くまで復習していたから本当は寝かしておいてあげたいんだが…」
咲夜はそう言いながら、そーっと寝室のドアを上げる。元々、咲夜自身寝相が悪い方で掛布団などはグチャグチャにしてしまうところがあったが、その布団を抱きかかえて眠るのが彩乃の好きな寝方とのことだった。
「あ~や~のっ。そろそろ起きられる~?」
咲夜はそう言ってまだ丸まった布団に抱き付いて眠っている彩乃の様子を見る。咲夜の声に反応したのか、もぞもぞと布団と彩乃が動き出しむくっと目を半分だけ開けた状態の彩乃が起きだした。
「おはようー、咲夜さま~。…まだ間に合いますかぁ?」
「あと30分くらいで準備してくれるとありがたいが・・・」
咲夜がそっとそう言うと、まだ眠いのだろうに元気を装って、ぴょんとベッドの上で飛び上がり起きると、ドアのところまで来る。咲夜は少し下にある彩乃のおでこに軽くキスして、「慌てなくて大丈夫だから」と言いながらリビングの方に行く。
彩乃は洗面所に行くと、顔を洗って、部屋に行き、とりあえず今日の分の服に着替えると、リビングの方に来る。
「今日から三日は誰にも邪魔されない、咲夜さまとの旅行ですね~」
「…可能性だけの話だがな。…緊急って、どこまでが緊急かは想像の範囲外だけど」
「咲夜さま、現実直視しすぎ」
そん なことを言いながら「いただきます」と挨拶して、朝食を食べ始める。朝食をそこそこに済ませると、咲夜は部屋の中に洗濯物を干し、同時に二泊分の下着など を入れたバッグを部屋から持ってくる。彩乃はそう言うバッグもまだ用意できてなくて、咲夜に洗濯物や簡単な掃除を任せて、自分は二泊分の準備に入る。
それから約30分で、咲夜はある程度の家事を終えてリビングでくつろぎ、彩乃の方はその30分で荷物と今の自分の髪の毛をどうしていくか悪戦苦闘して、結局自分が一番楽なポニーテールにしてあまり見せない彩乃の姿で部屋から出てくる。
「お待たせしました、咲夜さま」
彩乃はそう言って、リビングでくつろいでいた咲夜に声をかける。
「よし、行くか。…いつもの通りで」
咲夜 と彩乃がそろって外出する場合、彩乃は通常の正面玄関から外に出て、ちょっとした裏路地に入っていく。一方の咲夜は車に荷物を乗せると彩乃の跡を追うよう にその裏路地にある駐車場の入り口辺りに車を止めて、ハザードを焚き、表のコンビニへ。その間に彩乃が乗り込むと言ったことをしていた。もちろんばれれば こんな無駄なことはしないのだが、今のところ、彩乃の拠点が埼玉県南にうつっていることは、Unlimitedのメンバーでも数名しか知らない。よほど熱狂的かパパラッチでない限りは、ここはまだばれていないと思われた。だが、用心に越したことは無くこうして少しばかり手の込んだ合流方法を使っていた。
「さて、んじゃー久々のドライブ、行きますか」
「おー!!」
咲夜が言うと、その声に彩乃が反応する。
そんなに早い時間にチェックインしても仕方がないが、湯河原の旅館までは意外と早い時間で到着する予定がナビで案内される。それを見越して咲夜はちょっと遠回りをして、わざと富士五湖の方から山梨経由で神奈川方面に出るようにしていた。
「咲夜さまの運転はなんか落ち着きますね。…車も軽自動車の割にはしっかりした足つきだし、シートもレカロでホールド感も強いですしね」
彩乃はそう言って、普段のBRZでは窮屈しないで乗っている分、少しだけ軽のアルトワークスに狭さを感じていたが、それでも一般の軽自動車よりは大きめのアルトワークスの話をする。咲夜もそんな話を聞きながら、巧みにシフトチェンジをして、適正速度で高速を走っていく。
それから数時間、お互いにどんな話題を出そうかと牽制しあっていたが結局お互い特別な話もしないままで旅館についてしまう。
「旅館…と言うと、咲夜さまが告白してくれた場所だね。なんか思い出すなぁ。初めて『咲夜さま』って呼んだのも旅館で、と言うのが初めてだったし」
「俺はいまだ慣れない感じがしているけどね、咲夜『さま』には…」
言いながら、車を駐車スペースに止めて、玄関に入っていく。従業員で手の空いている者が一列に並び、咲夜と彩乃を迎えてくれる。そのまま荷物を仲居に預けて部屋に案内してもらう。夕食は18:30位からの部屋食と言うことで、どこに移動する必要もなかった。
「さて、ひとっ風呂浴びてくるかぁ…彩乃はまだ一緒と言うのは抵抗あるよな」
咲夜が浴衣姿に着替えると、タオルを持って大浴場に向かおうとする。その時に彩乃に状況確認をするが、一緒だと抵抗があると言うことで、咲夜と彩乃は時間差で大浴場に向かうことになった。
ゆっ くり風呂に浸かった咲夜が、クビに濡れたタオルをかけて浴室から出てくると、髪を少し濡らし下ろしていて、どこか今までの「明朗活発」と言う訳ではない少 し妖艶で実際の年齢よりも咲夜の方に近い年齢に見えるような、不思議な雰囲気の彩乃が椅子に座って咲夜の出てくるのを待っていた。
「…わざわざ待ってたの?」
「ええ、わざわざ待っていましたよ、咲夜」
わざとだろうが、その妖艶さも合間った状態での女優と言うのはある意味怖く感じると咲夜は感じる。
「風呂のつくりは同じだろうけど…どうだった?」
「…いいお湯でしたよ。泉質とかは私、詳しくないのでよくわからないけど、でも、保温効果だけはあるんだなってよくわかるわ、冷え性だけど、身体が十分に温まっているのを感じられるもの」
少しぎこちなく言葉を選んで彩乃が咲夜と話をする。
「咲夜はどうだった?」
「ん、実は貸し切り状態だったから、ゆっくり使って…もしかしたら湯あたりしてるかもしれない…」
「きっと大丈夫。それに部屋に戻れば食事の用意も済んでいると思うし。…ねぇ咲夜。出来たら一回、貸し切りのお風呂、入ってみたいわね」
突 然、彩乃からそんなことを言われて、咲夜はドキッとする。だが、そっと咲夜の腕にしなだれかかってくる彩乃の様子を見ると、お酒にでも酔っているような、 やはり妖艶と言える雰囲気を振りまいていた。…元々の桧並彩乃自身はどちらかと言うと、まだ子供っぽさの残る容姿をしていたが、それでも何かの拍子に咲夜 と同じくらいの大人な女性に見えることがあり、咲夜だけでなく、周りを歩く人々の目を引くことがある。今の妖艶さはその数十倍若い、しかしエロチシズムを その体から出しているような、昔で言えば花魁のような高貴な女性のようにも見える。故に、廊下をすれ違う男たちは「Unlimitedの桧並彩乃」に気付く前にその濡れ髪を見せつける独特の女性の姿に目を引かれ、同時にその女を連れている男にも目が行く。
そんなことを彩乃はわざと楽しんでいるようなところがある。部屋に入ると突然、タオルでグチャグチャと濡れた髪を無造作に吹き始めた。
「…さっきまで妖艶だったのに、いきなり子供に戻ったな」
咲夜が色々と考えていたことを口にしようかと思う前に、彩乃はいつもの彩乃の姿に立ち戻る。
「何となく、咲夜さまの『女』になりたくなって、頑張って大人になってみたんだけど、言葉が難しい。花魁風に自分を見せるのはそんなに難しいことは無いんだけどね」
今までなにもなかったように彩乃は濡れた髪を、乾いている別のタオルで巻き付ける。
そして、彩乃の予想通り、部屋のテーブルには夕食の支度が出来ていた。しばらくしたら仲居が準備に来るので待っていてくれとの紙もあったので、二人は少し夕涼みをしていた。
「咲夜さま、ちゃんと上座に座ってくださいね。…何も言わないと上座に私を据えようとしそうだから」
「…あれ?堂々と彩乃が上座に座るんじゃないの?」
「それで咲夜さまを従えるって、咲夜さまはMですか?」
「Sっ気の方が強いです」
「私はもちろんMっ気の方が強いんですよ。だから私を自由にしてくださいね」
など と言うことをしていると、ドアがノックされて、仲居さんが入ってくる。目の前の豪華な料理の説明や、必要な固形燃料の火をつけたりして、手際よく、咲夜と 彩乃のペースで食事をさせる。比較的多めのそのテーブルの上の食事だったが、二人ともお昼ご飯をわざと軽く食べていたので、ちょうどいい腹の満腹加減に なった。
そのまま仲居はテーブルを片付けると布団の支度をして出て行った。
「わぁ、お布団だ」
彩乃が今度は子供になった感じで、ふかふかの布団に嬉しそうな表情を浮かべる。
「普段はベッドだからなぁ。たまには布団でも・・・!!」
咲夜が油断していたら、彩乃が突然、咲夜に抱き付いていキスをしてくる。それもまた、単なるフレンチ・キスではないキスを。
「…まだちょっと時間、早いぞ。夜は長いんだから、ゆっくりしようぜ」
咲夜はそう言って彩乃を抱きかかえてまた、夜風に辺りに行った。
その夜。
就寝時間としてはとても速い時間だったが、二人は布団の中に入る。そして、彩乃は一番大好きと言って揺るがない咲夜に初めてをささげた。
翌朝。
「あーっ!!貸し切り湯に入り忘れたー!!」
その大きな声で咲夜は寝ぼけながら目を覚ます。
「…痛かろーが。傷になってるんだから、色々な人の入った後の湯につかるのはあまり傷によくないぞ」
咲夜が寝ぼけながら的確に判断してくるその姿に、何となく「面白くない」と口をとがらせて、彩乃が抱き付いてくる。
「おはよ、咲夜さま」
「おはよ、彩乃」
いつもと変わらず挨拶を交わすと軽くキスをする。そして部屋に備え付けの鏡を見ると、二人ともひどい寝ぐせのついた頭になっていた。
「…どちらにしても、お風呂で一回濡らして、髪を撫でつけてこないとなりませんね♪」
暗に貸切風呂に行くぞとばかりに彩乃が言う。
「無茶するなよ」
誰が、どの状態で入っているのかわからない貸切風呂だけに、一抹の不安を抱く咲夜だったが、肝心の彩乃があまり心配そうな表情をしていないところを見ると、考えすぎか?とも思ってしまう。
が、幾ら昨晩があったからとは言え、さすがにそのすぐ朝はお互い恥ずかしく、とりあえず彩乃は湯船につかるのを辞めて髪だけを濡らして、寝ぐせを治す。咲夜もあまり長湯はせず、彩乃が洗い場を離れたら、自分の頭も湯をかぶって、髪を整えた。
咲夜が彩乃と行きたい場所/
翌 日、チェックアウト間近の時間に二人はチェックアウトする。そして、他の高級車の中に小さなスポーツ車であるワークスを見つけて乗り込むと、おもむろに咲 夜はナビで次の行き先を確認する。だが、彩乃が何度聞いても「一緒に行きたい場所」とだけしか話さず、具体的には咲夜は話をしてくれなかった。
伊豆半島の西側の海岸線を見ながら、ワークスを軽快に走らせる。
「咲夜さまは普段って、音楽とか聴いて走っているんですか?今も小さく音が聞こえますけど」
彩乃 が、車の中で何となく聞こえる音楽に聞き入る。目の高さには、ナビいったいオーディオではなくオーディオ単体がセットされ、その上にタブレットでナビ設定 をしていた。そして、そのオーディオには曲名と歌手名などが表示されて、色々と変わっていくのを彩乃は楽しそうに目で追っていた。
「うん、普段は自分で用意した音楽だね。同じ音楽でもラジオは聞かないし…聞いていて知っている人、曲じゃないと、聞くだけ無駄な気がして仕方がない。生憎、Unlimitedの曲は入ってないんだけどね。集めている最中だし」
「その辺り、マメにしっかりと色々と区別して保存してありそうですね」
彩乃が咲夜の性格やこれまで見てきた様子を鑑みて話をする。
「まぁ、自分が納得できる程度には整理しているけどね」
咲夜の方も特別、否定しないでいた。
「…でも、音楽だけだと、ずいぶん浮気性ですね。私の知っている方もいれば、咲夜さまじゃないとわからない女性シンガーが多くて。男性シンガーを数えると、それ以外…7倍くらいは女性シンガーですよね」
少しだけ、頬を膨らませて彩乃が咲夜に告げる。咲夜は笑いながら説明する。
「いや、たまたま彩乃達のアイドル以前のアイドルに興味があってね。そこから女性シンガーばっかり聞くようになったんだけど、高校二年くらいから、アイドルからJ-POP系に切り替えた感じなんだよ。現状は大半が自然消滅しているユニットばかり聞いていたけどね」
咲夜 は顔は正面を向いて運転に集中しつつ、彩乃の質問には的確に答える。その咲夜の横顔を見ながら、顔だけは正面で必要な情報を仕入れてきて、シフトノブなど は自然と操る姿に、何となく格好良さを彩乃は感じて、アルトワークスと言う小さい車に乗っている咲夜が何となくもったいなく感じていた。
「咲夜さま、車…違うのにする気はありませんか?」
突然彩乃に言われて、咲夜は「へ?」と間抜けな返事をした。
「…なんかやっぱり、咲夜さまは小さい車もですけど、大きい車に乗っていただきたいと思うんですよね」
「例えば?」
彩乃の提案に咲夜はどんな感じの車があっているのかと言うことを訊きなおす。
「BRZのマニュアルとか。R34のGT-Rとか。スポーティなのはこのワークスでも十分に納得できるんですけど、咲夜さま自身の人柄と言うか、そう言う感じの大きさだと、ワークスだともったいない気がして」
彩乃はそう言って自分の乗るBRZなどの車を勧めてくる。ふむ、と咲夜は口元をとがらせながら、他にどんな車で、自分が乗ってみたいかを考えてみる。
「そうだねー、BRZ、WRX、GT-Rには乗ってみたいとは思うけどね。ワークスもまだ5000km達してないからそこそこの頭金になるかな?」
そんなことを呟きながら、車はある駐車場に入っていく。海沿いに石碑のようなもののなどが配置されている場所だった。
「咲夜さま、ここは?」
「恋人岬。機会と言うか、もう他の人になびかないと自分で自覚したら、その人と一回は行ってみたいなと思っていた場所なんだよ」
咲夜自身も恋人岬の名は知っていたが、それ以上はわからないようで、スマホ片手に調べているところだった。
「咲夜さまっ!!事前リサーチはしておくものですよ、行きたい場所ならば!!」
珍し く彩乃が声を少し荒げて咲夜に告げる。咲夜はその岬で金を鳴らし恋人の名を叫んだり、遊歩道の方で恋人証明書が出来ることなどを調べていた。突然と言う か、彩乃はそのまますべての恋人岬でできることを済ませようと、色々とこなしていく。伊豆半島周回だとそんなに時間もゆっくりしているわけにもいかなかっ たので、小走りで二人はそれぞれのポイントをめぐっていた。
「…でも、私もいずれは水無月彩乃って名乗れる日が来るでしょうか?」
「彩乃の心次第だなー。俺が働き始めてからとか、それぞれが何かの節目になったときとか、焦って一年後くらいとか、色々と考えられるけど、俺の方が…ね」
彩乃の質問に、咲夜が答える。確かに今は咲夜は在宅ワークのようなことをしていたりするが、それで満足のいく状態なのかと言うことなど、咲夜自身も判断いなければならないことは多々あった。
「…25歳かな、私が」
ぽつりと彩乃はそんなことを呟いてみる。「ん?」と咲夜が訊きなおすが「ナイショ」と言って顔だけを赤らめている彩乃だった。
それから二年/
恋人岬からの件から二年。彩乃が25歳になった。
それまで咲夜のことをひた隠しにしていた彩乃だった、そしてそれは見事にマネージャー以外にはばれないでいた。そして、咲夜の口からこんな言葉が出てくる。
「なぁ彩乃。そろそろ結婚してもいいかもしれないな、俺たち」
そう 言う咲夜は在宅ながら、簡単な校閲の仕事をしていた。最も校閲と言っても一番初めに目で追って注意書きを記して出版社に送り返し、その後、プロの校閲を担 当している人たちがその仕事に従事すると言う、まだまだ駆け出しだったが、仕事自体名は就きそれなりに自由なお金も出てくるようになっていた。
「本当!?咲夜さま!!」
「うん、俺も一応仕事言うにはまだひよこだけど、でもそれでお給料はもらえているからね。最低限の生活はできるようになってきたって感じでしょう?彩乃の25歳の節目だし、今年入籍しても良いんじゃないかなーと思ってね」
咲夜はそう言って彩乃に相談する。すると彩乃の顔がばぁっと明るくなる。
それからの彩乃の行動は早かった…と言うか、そんな話をした翌日には彩乃が会社に突然の報告をして、次の休日にはさっさと婚姻届けを出してしまった。婚姻届けは彩乃によると、咲夜から告白された日だと言う、3月9日に提出して、Unlimitedのメンバーも驚くようなスピーディーさで結婚することになった。
そうして、桧並彩乃が水無月彩乃になって一週間。どの歌手、タレントもしているFAXによる結婚報告を流す。
「おいおい、そんなに早く動かなくても、水無月さんは逃げやしないって。それに、どっちにしたってパパラッチの類は確実について回るだろうからね。彩乃もだけど、咲夜さんの方をマスコミ一同から守らなきゃならない使命が出てきたんだから、まずはそっちが先でしょう?」
長谷川マネージャーも、さすがに彩乃の動きの速さに並行するばかりだった。
彩乃の相手は一般人のため、マスコミの前には出ないでいたし、マスコミに対してもエイミープロダクションが手を出して、咲夜自身の身辺警護に当たっていた。
と言うのも(当然なのかもしれないが)、 彩音の結婚で、彩音に対するブーイング系の手紙が急増していると言う事実もあったからだった。彩乃自身はどこ吹く風だったが、咲夜自身は気軽に外に出られ なくなって、通院などに支障をきたしていた。だが、その辺りは彩乃が自分の車で送迎する形で、写真などを取られてもエイミープロの方で検閲が入るほどの徹 底ぶりで咲夜自身の行動もガードがきつくなっていた。
「…すげー威力だな、Unlimitedの桧並彩乃さん」
「…その自覚を持ってもらわないと困りますよ、水無月咲夜さん」
そんなやり取りが二か月くらい続いたが<
咲夜が特別な行動をするはずはないし、彩乃の方も咲夜に対して何か特別な行動を起こすことも無く、徐々にマスコミ陣は減っていく。
その頃になって、改めて彩乃は記者会見を実施する。
質問の一番は指輪の話になるが、エンゲージリングは無く、マリッジリングだけを咲夜とともにつけていると言うことだけを報告する。エンゲージリングが無いことについては家庭事情と言うことで彩乃はそこを切り抜ける。
他にも咲夜がどんな男性なのかとか、容姿は誰に似ているか、何時から付き合って居たのかなどなど今までクリアになっていなかった部分をマスコミはついてきたが、彩乃の方もしゃべるのはプロ級で肝心なところだけはのらりくらりとかわしていた。
そんなある日。
彩乃のBRZに咲夜が同乗していることがあった。
彩乃が、嫌がるのを無理に連れ出して咲夜をUnlimitedのメンバーに紹介したいと言うのだった。今日は全員がレッスンと言うことだったので、その前に彩乃が披露をすると言うことになっていて、メンバー全員が彩乃の到着を今か今かと待ちわびていた。
『別に、特別格好よくはないし、中年の腹の出たおっさん』
『やさしさと一途さが売りと本人は言うが、単なる売りではなくて、どんどんその魅力にはまるほど甘やかしてくれる』
『他にも残念な部分はあるが、身長だけは178cmと高めなので、それは男性として格好いい部分』
などの前評判は彩乃が自分で振りまいていた。
そして、彩乃が旦那となった咲夜の姿を見せると一同から驚きの声が上がる。
その理由は、体形こそ残念な部分がある物の、雰囲気がすでに優しさを醸し出していると言うところがあったり、実際の身長より高く見えると言われたり、とにかく咲夜の評判は良かった。
「彩乃、何時から付き合ってたのさ」
メンバーが訊いてくる。隣に咲夜が居ながらそんなことをしゃべるのかと思うと、嬉し恥ずかしで思わず咲夜にちょっかいを出したくなるほどの彩乃だったが、それでも質問にはきちんと答える。
「…通り魔事件のあった日から。…通り魔から助けてくれたのが咲夜さんだったんでつい、感情移入が強くなっちゃって、それに私が咲夜さんの背中側に逃げ込まなければ咲夜さんは怪我もしないで済んだんだけどね」
そう言って事実のところを話す。
「…看病しながら思いは募る、と言った感じ。だけど、看病しててもう私自身申し訳なくて、だけど咲夜さんて謝られてもこっちが困るとか言い出すから、なんて人のできた人なんだと思って。18歳差ってのも話したけど、もうそんな差は関係なくなっちゃってね」
なんてことを話して聞かせると、メンバーから「自分にも通り魔出てくれないかな」などと言う不謹慎極まりない言葉が出てくるようにまでなってしまった。
「いいなー、幸せそうで」
「…その代わり、謹慎半年、喰らいましたけどね」
『え!?』
今まで長谷川マネージャーだけにしか話をしていなかったところを会社のお偉方に謝罪したところ、その代償として、ツートップの片方を欠いてでも処罰はしないといけないと、謹慎を喰らうことになった。
「…なので、レッスンの時だけ顔を出します。それ以外の活動は完全NGになってしまったとさ」
「何でそんなにお気楽なのよ」
「だって、咲夜さんと半年も同じ屋根の下でイチャイチャできるんだもん、幸せ以外の何物でもないじゃない」
謹慎を喰らった彩乃だったが謹慎を喰らったところで、自分の何かが変わるわけでもなく、メンバーの前ではずっと、咲夜の腕をつかんでいた。
さらに半年。
すべての公演、TVなどのメディアから姿を消していた彩乃が戻ってくると、それはそれでマスコミを騒がせたが、単に自宅謹慎で突如姿を消して、それが終わったので突如舞い戻ってきただけ、と言う話を聞いて、しつこいマスコミもそんなに彩乃にくっついていることは無かった。
「不束者ですがこれからもよろしくお願いしますね、咲夜さま」
「こちらこそ、気が回らないところとかあるけど、お互いフォローしていい生活をしていこうね、彩乃」
それから、彩乃に第一子が産まれたとか、Unlimitedのメンバーが恋愛ラッシュになる、なんていうのはまた別のお話し。