琥珀翠紅(こはく みく)・・・某(なにがし)のペンネームであり、KOTOKOオフィシャルファンクラブでのドワーフネーム。
もとはと言えば、その某が、自分を客観的に見たいと言う希望と、あまりに馬鹿正直な自分がもっと気楽になりたいという願望から生まれた、ずっと自由人でいられる人格であり、もう一人の自分、疑似人格。
ここからは某を翠紅として扱うが…
翠紅はよく「持病がある」と言う。
それが何なのかは、勘のいい人にはすぐにわかる。先日、元アナウンサーの丸岡いずみさんが書いた「仕事休んでうつ地獄に行ってきた」と言う本を読み、そのあたり、自分なりに整理をしてみようかと考えたり、自身のHPのプロフィール欄にあからさまに自分の持病のことを書いた方がいいかと思った次第。
と、ここまで書けばわかるだろうが、翠紅は鬱病である。
鬱病と一言で言っても、翠紅のそれは、時には「躁鬱」にもなり、「鬱」にも「躁」にもなったりするらしい。医学的観点からこれをなんていう病気とするかと言うと「鬱病」と言うことになる、と言うことである。
実 際、 投薬治療が中心になっているが、その薬は、抗鬱、抗躁、てんかん、統合失調症など、様々な薬が中心になっている。前述の丸岡いずみさんは、薬が「教科書 的」に効く方だったらしく、投薬から数か月である程度は鬱の症状と言うものから解き放たれていたらしい。しかし、翠紅にとっては現主治医の下での投薬治療 も7年近く経過しているが、特効薬的なものが見つからず、主治医も四苦八苦しているようである。
最近、芸能人があることをきっかけに鬱になり、回復されたと言うニュースをよく見るが、あまり好ましくないと思うところがある。
そ もそ も、そんなに簡単に回復しているのであれば、翠紅だってとうの昔に回復していてもおかしくないからである。「心の病気」などと言ったりしているが、実際は 「脳の病気」であるという認識に最近は変わってきていると言う。回復した人をとやかく言うつもりはないが、鬱にはならなければならない方がいい。確かに必 ず「いつかは」治るものであるそうだが、それがいつの未来なのかなんて約束はされていない。自分でもよくなったかも、と期待したところで地の下に叩き落さ れることもしばしばあるのは事実だから。
なので、精神的に追い詰められて「鬱になった」とか言うのは、「鬱病orうつ症状が認められる」と言う診断なくして、軽々に言わないでほしいと思うのである。鬱自体にも、いくつかのランク(ステージ?)があり、鬱状態、鬱症状、鬱病、大鬱病とわかれるそうである。大体、鬱症状程度だと、投薬治療を続けて、そう長くない期間の療養に励めば、比較的治りは早いと言うものらしい。
翠紅は人生の半分近くまで、鬱と共にしてきた。やりたいことができなかったり、色々を禁止されたり。あげればまだまだ言いたいことはあるが、できることならば、鬱は未然に防ぐよう、仕事やストレスをうまく開放することをお勧めする。
さて、話はかわり。
先 日、 実妹と話をする機会があったのだが、「兄貴は鬱でいることに甘えているんでないかい?」と質問された。自分では甘えているつもりは全くないのだが、ただ薬 を飲んで、その効果を待つというのは、甘えの何物でもないというのである。そういわれてしまうと、確かに甘えの一つではあると言えるだろう。だが、鬱に なってみて、「出来ること」と「出来ないこと」がある。…などと言うがそれはいいわけで、実は「出来ないこと」の方が9割近くを占めている。ゆえに、寝たきりにもなるし、外出もしなくなる。
現在、2016年3月に単独の交通事故を起こしてから、車の所有の許可が下りていない(翠紅は散財家であるため、貯金と言うものが一銭もない。それと、両親の強い願い(これ以上車に乗ってまた事故るのではないか)によって、買わせてくれないという現状がある。)ので、車がほしいとのたまうのだが、それも甘えだという。このドのつくような田舎で、実際コンビニまで自転車で10分 弱、と言う距離感の中で、自転車や、公共交通機関を使って生活するのは、意外にしんどいのであるわけだが、それをしばらくはせよ、と実妹は言う。車が「ど こかへ遊びに行くための道具」として所有するのであればなおさらだと言う。…実際、自転車ではいろいろな成果は出ないというのはこの7年間で十分知ったこ とであり、体重もかつて60kg台だったものが、プラス30kgオーバーまでになってしまっている(どうも、処方されている薬が大きな原因ではないかと主治医の談。しかし、症状の中に暴飲暴食になる、と言う症状が認められる場合もあることはある。)の で、やせようと手を変え品を変え、ダイエットを実践したが思うように効果が出ない。それもわかっているので、自転車に乗ってどこかへと出かけよというのは 相当酷な注文ではあるのだが…まぁ、実妹の言うこともわからないではない。そのため、最近は自転車で朝一番の太陽の光を浴びて、体内時計のリセットをする と言う日課をこなしている最中である。
が、 長 距離移動は車の方が楽ではあるし、なにより、車の中は誰もいない、一人だけの自由空間で一番ストレスが発散できる場所なのである。それは言ってみたがなか なか理解されないのが実情でもあったりするのである。こればかりはどうにもうまい意見交換が出来ないもどかしさがあるのは事実ではある。
簡単ではあるが、こんな感じの近況(2016/09/20現在)の中で、以下の文章を書いていく。
で、簡単な時系列で鬱のことを振り返ってみようと思うのだが・・・。
翠紅は平成7年4月1日に、E社に就職し、一番なりたくなかったサラリーマンになった。それからのこと…。
平成14年(2002年)が鬱病として、心療内科を訪れた初めの記録になっている。
その頃は某S社で、IT関連、特に、電話回線、データ通信回線(ADSL、光ファイバー回線)、データ通信交換機(ATM(銀行の現金自動預け払い機ではない)、フレームリレー、パケット交換、データ多重化専用線)などを専門に扱い、回線の申請、オファーのあった企業へのプレゼンのための前設計、プレゼン採用後の実ネットワークの構築、運用などなど、とにかく、そんなデータ系回線(広域回線伝達網、Wide Area Network、WAN(最近はWANと言う名称では呼ばなくなっている)、WANの末端は、Local Area Network、LANに繋がる)絡みの仕事をしていた。
ちょうど、本来の籍を置くE社から、E社へ100%出資している親会社S社に籍を置き仕事をしていた。
そのさらに親会社であるS社および、協力関連会社が、自社ネットワーク網を当時のJ社(現在は大手電話回線業者で携帯電話も手掛けている某S社)の全国電話・通信回線網を間借りし、独自で持っていたネットワーク回線をすべて移行する(自社で管理する回線ではなく、回線網から設計、運用のすべてを移管する)、と言うプロジェクトが立ち上がった。
翠紅もそのプロジェクトに参加していたものの、入社からは7年経過していながら、その部署では一番の下っ端として、指示のある所へと出張して下見および、新規回線の回線開通申請、開通確認、回線使用の可否を確認するような日々を送っていた。当時のプロジェクトリーダーは、回線網を提供する現S社からの出向で来たM氏と言う方だったが、一番の下っ端で、どうしても年齢的に上の人間が出張と言うわけにはいかない状況(翠紅の上は10歳上の翠紅の大先輩M氏だったが、そのM氏以上は「シニアシステムエンジニア(SSE)」と呼ばれる、各企業お付きのエンジニアばかりだった)のため、出張には翠紅以外にはいくことが少なかった。
それでも、一週間に一~二回は出張(日程的には二泊三日)す るようなスケジュールばかりを組んでいたプロジェクトリーダーからは一目置かれる存在ではあった。変なところで馬鹿正直で真面目だけが取り柄だった当時の 翠紅には、淡々と出張、仕事をこなし、遊ばずに帰ってくる、を繰り返すばかりで、プロジェクトリーダーは楽しめると思われる食事などについて、美味しいと 評判の居酒屋やラーメン店などを調べては翠紅に「息抜きも必要」と常々言ってくれていた。
プ ロ ジェクト自体は二年くらいの期間を構想していたが、そう簡単にいくものではなく、二年などと言う期間はあっという間に経過し、それ以上の期間をかけること も許されないという、まさに四面楚歌の中、リーダーと翠紅の出張でつないではいたが、週に四か所、新幹線を乗り継いで各箇所の協力会社を訪問するというス ケジュールに、音を上げないわけにはいかなくなった。
なんとかその移行プロジェクトが完了し、実運用が始まったあたりから、翠紅の様子がおかしくなっていく。
と言うのが鬱を招いた原因と、翠紅は思っている。
だが、何回か、オフィスを移転していて、そのプロジェクトをしていたオフィスと、鬱になったときに居たオフィスの記憶が違っているので、このプロジェクトがきっかけかどうか、正直正確ではない。
ある筋からの話では、10歳年上の大先輩M氏 は、当時翠紅が付き合っていた彼女と別れたのが、鬱の原因と言ってやまなかったそうだが、その事実はなく、別れたのはプロジェクト一年目くらいの頃で、夢 中になって仕事に励んでいたという記憶がある。また、実際別れてから仕事をしていたという証明のようなものも残っているのも事実だったりする。(今更その証拠を突き付けても仕方ないので、なんの行動も起こしはしないが…。)
このころの翠紅は、本来所属の会社E社が用意した、親会社S社の親会社S社の寮に住んでいた。実家が埼玉県K市であり、勤務地は東京都C区。新幹線通勤などをしなくては、とてもではないが二時間程度の通勤時間で行けたものではなかった。
そのための寮での生活になったわけで、当時は後輩たち(部署はまちまち)も同じ寮にいて、様子のおかしくなっている翠紅のことを色々と気にかけてくれているような状態ではあった。
調子がおかしくなっていたということは、当時、E社で直属の上司である某U氏も感じていたことで、その前後でU氏は翠紅が心療内科に通院を始めたことをどこかで知ったらしい。…と言うのは、翠紅は心療内科に通いながら、仕事は続けようと言う気持ちがあり、心療内科への通院については、一言も、誰にも話さなかったのである。
…鬱になると、朝から憂鬱になるとか、朝が起きられなくなるとか、「朝」にその症状が出る傾向があるとよく言われてきた。(最近は、朝に限らず、四六時中、うつ症状に悩まされることのある患者もいて、翠紅もその一人である。)で、心療内科に行き始めて、気が楽になったのか、朝の勤務に間に合う時間に、間に合うように起きることが困難になった。初めは大目に見ていたU上司も、ただ事ではないと、今は親友として付き合ってくれている後輩で同じく寮住まいだったU君を自分の後釜に据え、とりあえず翠紅が出てきたら後輩U君に仕事を移管する、と言うことになる。
だが、とにかく朝が起きられないのである。特に後釜が決まったと言うのがまた安心材料にもなってしまったのか、昼近くまで布団を被ったまま起きることができないでいるという状態にまで追い込まれ、昼あたりに後輩U君から「今お昼ですが、起きて出社できますか?」と言うアフタヌーンコールをもらって動くという体たらくになっていた。
ここまでになると、いよいよ直属の会社E社でも手を打たなければ、仕事は滞るし、何より翠紅が過労死でもしたらまずいことになるだろうし、ましてや希死念慮(当時はその思いが強かった)から自殺、なんてことを招いても会社としての存在が大変なことになるとでも思ったのだろうか、その真意は定かではないが…。
その日はなぜかアフタヌーンコールもなく、布団を被ったまま、半死亡状態で眠っていたが、突然ドアをノックされて飛び起きた覚えがある。なぜ飛び起きたのか、それは極力人に会いたくなかったからである。
鬱になると、考え方も鬱々として一人になるしかなくなるのが特徴とでもいうような症状が、表に出る様子の一つになるという。
とりあえず起きはしたのでドアを開けると、直属の会社某E社の人事部長K氏がいた。
「思ったよりは元気そうだが、今まで寝てたのか?頭がぼさぼさだぞ」
翠紅はなぜか、同僚や後輩から好かれることも少なからずあるが(面と向かって「本人の前で言うのも悪いが、実はお前のことは嫌いなんだ」と言われた経験もあり、同期や後輩たちから全幅の信頼を、と言うわけではなかった。)特に上司たちから可愛がられるというような人格を持っていて、この人事部長K氏も翠紅を可愛がってくれた一人だった。
とりあえず着替えさせられ、寮近辺でランチをしている居酒屋に連れていかれた。
「アルコールを呑め、ざっくばらんに話がしたいから。食べ物もランチの定食じゃなくて、酒のつまみにして、午後一杯でも酒を呑みながら話がしたいから」
そう勧めてくるのである。K上司はそう言って、駆けつけ一杯とビールを注文、話の前に一杯呑めとばかりに一杯目を空けさせられた。
それから、上司であったU氏の名を出して、「心療内科に通っていると言う話を聞いたが本当か?何があった?それに最近は出社自体も困難になっているそうじゃないか」
と言う質問をされた。ここまで知られていて、今更、人事部長に嘘をついても仕方がないか、と観念した翠紅は、現在心療内科に通っていること、今はまだ軽度ながらも鬱病であること(最初の診断は軽度の鬱症状が確認される、と言う診断だった)、鬱が理由かはわからないが朝の起床時間が大きく狂って昼に起きるのがせいぜい、ひどいときは夕方まで眠っているようなことがある、などの当時の状況を話した。
それを聞いたK人 事部長は一も二もなく「明日から出社しなくていい、診断書さえ出せば、俺が責任もってゆっくり休ませてやる」と言ってくれたのである。だが、社則には『傷 病で会社を休む場合、最高一年六か月まで』と定められている。そのことに触れたが「お前にはいてくれないと困るから、何なら社則など無視できるようにする か、社則からその文言を消してやる」と言うようなことまで言ってくれて、寛解(かんかい、傷のある怪我で言うところの完治にあたるが、再発の可能性が高い精神系の病気は「完治」とは言わず「寛解」と言うのが主流なのだそうである)まで休め、その間仕事のことは心配するな、と言うのである。いくらなんでもそこまでのことを言われて、はいそうですかと言うわけにもいかず、躊躇していたら、「明日出社するようなら逆にクビにする」とまで言うのである。
そうして、長い鬱との付き合いが始まったのである。
翌日からは仕事を心配しながらも、寮の部屋に籠って鬱々と過ごす毎日になった。
その間のことは、正直言うと鮮明には覚えていない。
言い訳じみているが、実際、病気の間のことを比較的鮮明に覚えている人と言うのは少ないようだ。
翠紅の場合は、寮で生活していた頃は、昼まで寝ていて、昼飯を近くのコンビニへ。メロンパンが大好きで、毎日メロンパンを食べていたと言う記憶はある。そして午後も睡眠、夜になったら寮の食堂で夕食を食べて風呂を済ませて再び睡眠、と言うサイクルを繰り返していた。
赤子が「寝ることと泣くことが仕事」と言うが、このころの翠紅もいらぬことを考えずに、とにかく寝るだけが仕事だった。ただ、調子のよいときなどもあり、そういうときは起きていたと言うこともある。
ただ、このあたりの記憶はやはり曖昧で、それが前に書いた時期・鬱になったきっかけとの関連性を狂わせているようなこともある。
発症・通院開始については、医者の記録した診断書を確認してわかっていることだが、寮にいた時期、自分が何をしていたか、よく覚えていないというのは事実だったりする。
それから数年、休職と復職を繰り返していたりはしていたのだが、そのうちに、寮の取り壊し計画が出てきて、翠紅は当時の寮から、東京都H市に拠点を移した。
そして、初めはセカンドオピニオンのつもりではあったのだが、あまりにもそれまで通っていた医者が特別効果的に症状の変わるような治療をしてくれていないと感じていたこともあり、平成21年(2009年)4月に現在の心療内科に転院する。
このころは、短いスパンで、復職と休職を繰り返していた。
幾 らか 調子が上向きになってきたころ、今までの通信回線がらみの部署ではなく、まったく関係ない、自社のコンピューターセンターでの仕事を指示され、約一年通 い、順調に仕事ができた。それを足掛かりに復職できるかと思っていたが、そのあとに元の回線がらみの部署に戻ると、途端に調子が悪くなるのである。拒否症 状がでていたのであろうが、そこまで考えることもなく、グダグダなうちにやむを得ず、診断書を提出し、3カ月程度の休職を余儀なくされる。
その休職明けには、同期で大親友であるS君と同じ職場に出向と言うことで、やはり一年間ほど通っていた。だが、ここで鬱である以上襲ってくる嫌な症状に悩まされる。「仕事に行きたくない」と思うようになるのである。そして、勤務シフトを確認して、3人出社の日に、どうしても出社できなくなったので休むと告げたところ、その三人出社は架空で実は自分ともう一人の二人だけだったという事態になってしまった。最低、二人でその職場はまわしていかないといけないという、翠紅の籍を置いていたN社と相手の会社との契約があったので、大失態どころか、契約違反で自分の首はほぼ切られた状態になった。当時、担当していた翠紅の会社の営業担当は、すぐにクビにして、新しい人員を用意する、と先方の会社に告げたのだそうである。
・・・ が。ここでも「上司に好かれる」部分がなぜか生かされ、「いや、あいつに今いなくなられたら、その仕事が回らなくなるからクビなどにせず、極力休まないよ う注意するだけで、勤務は続けさせてほしい」と先方の契約上のトップから営業に指示があったそうなのである。そうして翠紅はこの出向でクビになることな く、勤務できるようになったわけだが、聞いた話では、営業は汗かきかき、平謝りと翠紅への怒りとで大変で、逆に先方の会社が翠紅のことをあまり怒らないで くれと、どちらが翠紅の直属の上司だかわからないほどだったそうである。…当時、一緒に仕事をしていた、先方の会社からチームに入っていたW女史からの伝聞なので、どこまでが本当かはわからないのだが。これには後日談と言うか、翠紅の出向完了のタイミングにもW女史の会社の方で契約すれすれのことをしようかと言う、やばい話があったのだそう。と言うのは、翠紅のヘッドハンティングを決行しようということだった。正直、翠紅は仕事と言っても、その出向先ではまともに仕事らしい仕事もできず、LAN関係を扱っていたのだが、まったくLANの知識はちんぷんかんぷんだったのだが、W女 史曰く「翠紅がいてくれると、職場がなんとなく平和になる」のだそう。そのため、ぎすぎすしがちなそのオフィスにマスコット的においておくだけでいいとい う名目でのヘッドハンティングをしようと言う話が上がったのだそう。だが、あくまでこの会社には出向で来ていた身、出向の人間をヘッドハンティングと言う のも実際会社間としてどうなのだろうとか、今後、翠紅の会社との付き合いの中で、このヘッドハンティングが問題になりかねないのではないか、と言うこと で、やむを得ず、その時はヘッドハンティングは取りやめになった、と言う話もあったそうである。その出向先の会社では、翠紅が出向から会社に戻ってから ヘッドハンティングをするという計画も練っていたそうなのだが、この時はまだ、大親友S氏はその出向先にいて、契約などは続いていたそうで、踏み切れなかったというのが実情だったというのである。と言うのが、W女史からの後日談。
そして、ちょうど出向が終わったあたりで、翠紅は再び元の通信回線絡みの部署に舞い戻ることになった。が、やはりこの部署が鬼門であるかのごとく、数カ月要さず、ダウンする結果になった。
それからは、復職もまともにできないほどになっていて、最終的に所属N社の人事から「傷病期間が会社の定める1年6カ月に達する、今復職しなければ退社手続きをとる」と言う話になってしまい、復職も到底無理な状況で、退社の一択になってしまった。それが平成21年(2006年)の話である。
退社してからは、H市の自宅(賃貸コーポで一人暮らし)でくすぶっていたが、散財家である部分と、失業手当と言う存在を知らなかったせいもあり、退職金はある程度の期間で底をつく。それまでには、イラスト用の液晶タブレットを購入したり、プリンタをスキャナ付きの当時最高レベルのものを買ったりと、散財に散財を重ねていた。
このころ両親は、一人でいるのがいいのだろうか?敵に色々と悩んだりしていたようだが、実家に戻るという選択は自分でもできなかった。両親も戻ってこいとは言わない部分もあった。
そうしているうちに、家賃滞納が始まる。
大 家さ んは人の好い人で、こちらが鬱になったということを話したところ、しばらくの家賃は滞納していても、払ってくれれば大丈夫だから、などと言ってくれてし まったのである。それは翠紅にとってどんなに甘い蜜だったか。そのまま一年滞納が続き、気を使った大家さんは、翠紅にではなく、両親に事の詳細を伝えたの である。
翠 紅は それはもうこっぴどく叱られると覚悟をしていたが、その時はそんなこともなく、大家さんを含めて話し合い、滞納した分については、大家さん付きの行政書士 さんが家賃滞納の場合、大家さんの指定する期間までに十人が退去し、大家さん側からは詳細などの書類を提出することで、かかる税金や家賃収入分の補助など ができると言うことだった。両親と話し合い、翠紅は平成23年(2011年)に、実家に戻る、と言うことになった。
実 家に 戻って、なにか急激に回復した症状があるかと言うと、それはなく、ただグダグダとした日々を送るだけ。ある程度は仕事をしないといけない、と思い、ハロー ワークに行っては自分にできそうなバイトを見つけたりしてきたが、実際一番長く勤めた場所でも半年で退職になっている。
そんな状態が続いていくと、次に行ってもまた半年程度で退職してしまうんだろうと考えるようになり、パートに出るのもしんどくなって、しばらくは何もしないでいる日々を送る。
平成27年(2015年)になり、父の仕事に同行して、簡単な手伝いをする、と言う名目で外出をしていたが、徐々にそれもマンネリ化してきて、ドロップアウトするような状態で、今に至る。
とまぁ、こんな感じで鬱とは14年 ほど付き合っているわけだが、どうにもよい突破口が見つからないのが現状である。そんないまは、車がないので自転車で近所を散歩するのが精一杯の行動だ が、少しだけ、勉強をして、手に職をつけるための資格を取ってみるのもいいかと思ったり、グダグダで寝たきりの状態から、最低限、日中は起きている、そし て、何もしなくても家の中をうろうろ、近所をうろうろと言った感じで行動を起こすのを日課としている。…日課と言うが、できない場合もあり、今の翠紅には これが精一杯なのは、先述した通り。
幸いなことに、大親友の二人、S君とU君には世話になりながらも、数カ月に一度(短いときは二カ月に一度)、呑みの場を設けてもらい、親友たちは仕事の愚痴、翠紅は病状のことなどを話して、憂さを晴らすようなこともさせてもらっているので、この点については、大親友二人には感謝、と言う一言では収まりきらないほどの礼をする必要がいつか、出てくることだろうと思っている。
どうか、これを読んだ貴方が、翠紅のように鬱にならないよう、ただ今は祈るばかりである。