Angel’s Whispers 〜天使のささやき〜 Vol.1  /  Page−3

 

 それから数日後。

「あれ?真紅君、なにしてるの?」

 特に珍しいことではなかったが、すでにクラスメイトは部活に出たり、帰宅してしまったりしていて、すでに教室には真紅以外は誰もいなかった。一人 残っている真紅に声をかけたのは、真紅の元恋人の紗美だった。

「…ん?あぁ、紗美さん。三年生が補習授業終わるの、待ってるんだ」

 運動部がグラウンドで動き回っている様子を見つめ、真紅は紗美のほうを向くでもなくそう言った。
 最近、学校では、女子生徒に人気の翠浦真紅が誰かと付き合い始めたと言う噂が流れ始めていた。そして、確定とはされていなかったが、その相手が天野 水樹であると言うことも一部ではささやかれていた。また、その天野水樹が今までは誰もがそうしているように、多少の校則違反をしていても気にしていな かった風な様子が一変、模範生のようになったと言う変化についても色々と噂が噂を呼んでいた。
 紗美も真紅に対する噂は耳にしていた。そして、そんな情報を聞いた自分は、寂しかったと言うことに気付いていた。一年のとき、紗美が真紅を勝手に振 り、くっついた男とは、そう長続きもせず、男が遊び飽きたとでも言いたい様子で、紗美は捨てられていた。そんなことからも、できれば真紅と復縁なんて 都合のいいことを時々考えたりしていた。

「…ね、ねぇ真紅君。突然こんなこと訊いてゴメン。…あの時のこと、怒ってる?」

 珍しく、紗美は過去のことを真紅に訊いて来ていた。普段は過去のことなど気にせずに紗美も真紅も話していた。元恋人と言うことはあるが、それ以前 にクラスメイトとして当然とも言える態度だった。
 真紅はそんな紗美を不思議そうに振り返って見つめるが、納得しているように微笑むと、また視線をグラウンドのほうに向けた。

「全然。だって、僕がなにか言っても、いまさらじゃない。…どうかしたの?紗美さん」

「・・・真紅君、あ、あのね、実は私、まだ・・・・・・」

 紗美は真紅が不思議そうな声を上げて訊いて来たのに対して、意を決したかのように話し始めた。だが、その紗美の言葉は、真紅の次の言葉にかき消さ れた。

「僕は紗美さんのこと、今でも好きだよ。…うん、あのときの気持ちのまま、愛してもいる、かな。嫌いになんかならない…なれないよ。・・・だけども う、あの頃には戻れない」

 真紅にしては珍しく、甘えても良いと言うような態度を取らず、断言する。その言葉を聞いて、紗美は言葉を失う。グラウンドを眺めている真紅の後姿 を見つめて、紗美は複雑な気持ちを抱いていた。

「・・・俺はさ、紗美さんと同じくらい、水樹が好きだし、愛してる。…今の紗美さんと水樹の違いは、俺がまだ助けを必要としているか、って点かな。 紗美さんがもう少し早く、助けてくれれば、戻れたのかも知れないけど…」

 紗美は真紅の言葉遣いが少し変わったことに気付いていた。その言葉遣いがどんな意味を示しているか、なんとなくわかってしまい、我慢していたわけ でも泣きたかったわけでもないのに、その瞳からは涙の筋が頬を伝った。

「真紅っ!!おまたせっ!!」

 涙を流しながら、落ち込む紗美。その紗美の背後から元気な声がする。真紅は紗美の肩越しにその声の主を確認すると、おもむろに立ち上がった。

「お疲れ様でした。…帰ろうか」

「・・・ね、真紅。如月紗美となに話してたの?」

 うなだれて元気のないその背中が紗美のものだと気付き、真紅の言葉に反応せず、思ったままの言葉を水樹は口にした。不快感をあらわにしながら。
 紗美はその水樹の言葉を聞き、いや、自分のことを嫌悪の対象のように言った水樹に対して、より落ち込み、肩を落とす。床にいくつかの涙のしみができ ていた。
 真紅は紗美の横を通るとき、軽く紗美を元気付けるように肩をたたいた。

「・・・ま、色々とね。それに、紗美さんが来たのはついさっき。言葉を二言三言交わしただけだよ」

 真紅はそう言って、水樹に「それ以上は言うな」と言う視線で水樹に呟く。水樹は真紅の言いたいことを理解していたが、それでも「紗美が真紅を裏 切ったこと」はいつになっても許せそうにないと、水樹自身は感じていた。
 ふぅっと軽いため息を水樹はついて、真紅が近寄ってくるのを待つ。だが、真紅の足は、水樹の少し手前で止まった。水樹は不思議そうに真紅を見る。真 紅は水樹を通り過ぎ、この教室の入り口あたりを見ていた。水樹もつられて振り返ると、そこには、水樹の言う疫病神…水樹が指輪などを返したあの時の男 が立っていた。
 この男は水樹のクラスメイトで、相変わらず水樹を追いかけていた。そして、今も水樹がどこに行くかを確認した上で、こうして追いかけてきていたの だった。

「…水樹がどんな男に現を抜かしてるのかと思えば、こんな優男かよ。なぁ、痛い目に合いたくなかったら素直に引き下がれよ。水樹は俺のモンなんだか らさ」

「・・・あのねぇ、いい加減にしてよっ!!」

 男が言うと、虫唾が走ったかのような嫌悪感を水樹は感じる。そして、その男に言い返していた。ひっぱたいてやろうかとも思い、水樹がその男に近づ こうとした時、それを真紅が止めた。

「ちょっ・・・と?・・・真紅?」

 止められた水樹が不意に真紅を見ると、いつになく真剣な顔をして、真紅はその男を見ていた。水樹はそんな真紅の表情に、そして一緒に居た紗美もそ の真剣さに驚いていた。

「水樹は俺の彼女だよ。あなたが思っているような、軽い女じゃないんです。それに…水樹はちょっと無理していたようですからね」

 真紅はそう言って、水樹の肩を抱き寄せる。

「その手をどけろよ」

 男は水樹に気安く触る真紅が気に入らない様子だった。だが、真紅も別に気圧されることもなく、そのまま水樹を抱きすくめる。

「ねぇ、水樹。野暮なこと訊くけど・・・・・・」

 水樹の耳元で、真紅は小さな声で何かを呟く。水樹は一瞬驚いた表情を見せた。だが、水樹は真紅を、真紅は水樹を、お互いじっとまっすぐに見つめる と、水樹は目を瞑って、納得したようにうなずいた。
 そして、水樹はスッと真紅の首の後ろに両手を回して、そこで手を組む。真紅は水樹の後頭部に優しく手を添えた。ゆっくりお互いに顔を近づけて、二人 はゆっくり口付けを交わした。場を共有する、他の二人にしっかりと見えるように。

(・・・真紅君のあんなに真剣な顔を見るのは…私、二回目、なんだ。一回目は…私が彼に距離を置きたいって言ったとき…だ)

 紗美は真紅の真剣な表情の意味を掴み取った気がした。そして、自分のしたことがどこまで自分勝手で、真紅自身を傷つけてしまっていたかも、ようや く…自分が同じような立場に追い込まれて・・・前回は紗美が真紅を無理やり追い込み、今回は紗美が自分からその立場に飛び込んだ格好だが、その時に なって初めて気付くことが出来た。

「・・・知ってました?水樹は今まで、身体の関係以前に、まだキスもしたことなかったって。そして、今したことがどういう意味を持ってるか、わから ないなんてことはないですよね?」

 真紅は挑発にも似たような口調でその男に言ってみせる。その男は奥歯をぎりっとかんでいた。

「あんたが私にどう思おうと勝手だけどさ、私の気持ちも考えたことある?…ううん、ないよね。じゃあ、教えてあげるよ」

 水樹はそう男を哀れむような声で言い、真紅に抱きついた。
 その様子を見て、男はやり場のない怒りを覚えているようだった。
 同時に、そんな行動に出た水樹を、紗美はびっくりした表情で見つめていた。以前の水樹ならばこんなことはよくしていたかもしれないが、模範生と言わ れるようになって、人前でいちゃいちゃしたりはすることはなかった。そして何より、今この場でしたキスがファーストキスだったと言うことに驚いてい た。正直、紗美は水樹を同類と、男遊びをしているような女だと思っていた節があった。だが、ここでも初めて今度は水樹のことを知ることになった。

「私は、真紅が好き。大好き。他の誰よりも、今までの誰よりも。そんな男だから、真紅にファーストキスをあげた。そんな男だから、人前で真紅とキス をした」

 水樹はそこまで言うと、真紅の首元に顔を寄せるようにして甘える猫のような仕草をする。真紅はそんな水樹の頭を軽く撫でていた。

「・・・こんな私だから、色々な男を見てきたけどさ、あんたほど最低なヤツ、思い込みの激しいヤツ、ストーカーじみたヤツ、見たことはないよ」

 水樹は真紅から離れて、男を睨み付けると気持ち悪いとでも言いたそうに言う。
 その言葉を聞いて、どんどん惨めになっていく男だったが、何も出来ない、何か出来るはずもなかった。

「紗美さんにも、この意味わかってもらえますよね?気持ちは変わらないけど、それ以上の気持ちが出てきてるんです」

 真紅は紗美に向き直って、少し申し訳なさそうに言った。

「・・・ゴメン、ごめんね。本当に真紅君には悪いことをした…」

 紗美は今まで涙を悟られないようにしていたが、今はそれさえしようとせず、涙声で、真紅に詫びた。

「・・・真紅クン「には」?あんたねぇ、自分がどれだけ・・・・・・」

 水樹が紗美の言った言葉に反論しようとした。紗美の過去にしたことが、たったこれだけの言葉で謝りきれることではなかったし、今となっては、紗美 が傷つけたのは誰より自分が愛している真紅なのだ、水樹がそう簡単に許すはずもない。
 だが、そんな水樹の口に手を当てて、真紅が黙らせてしまった。
 水樹はそんな真紅の手をどかそうとするが、真紅はそれに応じない。

「・・・もう、良いですよ、紗美さん。他の誰かには、あの時の俺みたいなこと、しないように気をつけてくださいね。それと・・・」

 真紅は紗美を見ながらそう言った。そして、言葉を続けるように言いながら、水樹を見つめる。水樹には、それが何を意味しているか判った気がした。

「もう一人、謝らないといけないでしょ?」

 真紅のこの言葉に背中を押された気が、紗美にはしていた。
 真紅の言葉を聞き、水樹は真紅の手を振りほどくと、慌ててその場を立ち去ろうとした。

「・・・水樹、聞くだけはしてあげて」

 水樹は真紅に手を握られ、動くことも出来ずに立ち尽くした。だが、紗美には背中を向けたまま、振り返ろうとはしない。

「ごめんなさい、水樹先輩!!恩を仇で返すようなことをして・・・!!」

 涙声のまま、紗美は水樹に言い、水樹の背中に頭を下げた。振り返ってくれないだろう、なにも言ってくれないだろう。紗美にはそれがわかっていた が、頭を下げずには居られなかった。
 真紅が握っている水樹の手が、真紅を自分のほうに引き寄せる。

「・・・真紅、帰ろう」

 水樹は静かにそう言う。真紅は水樹の手を握ったまま、紗美のほうを見た。

「また、明日ね、紗美さん」

 いつものように、いつもの態度で、だが今では違う真紅は紗美に笑顔でそう言った。そして、水樹の手を逆に引くようにして真紅は歩き出す。だが、水 樹はその場から動かなかった。数十秒の間を置き、水樹は紗美の方に振り返る。

「・・・紗美。私はおまえを許さない。絶対に許さないんだからね、だけど」

 静かに、だけどどれだけの怒りが込められているかわかるような声で、水樹は言う。

「だけど、真紅に逢わせてくれたことだけは、礼を言っとく」

 水樹の言葉の最後のほうは、いつものどこか自信のあるしっかりとした口調で、だけどその声は小さく、うつむいたままで言った。

「せ、せん・・・ぱい・・・」

 紗美は呟くが、決して頭を上げようとはしなかった。水樹に対して、頭を上げられるはずもなく、この状況では、自分自身が頭を上げることを許せな かった。
 だが、水樹は真紅の手を離すと、紗美に歩み寄る。そして、頭を下げている紗美の頭を両手で包むように優しく手を添えると、紗美の下げている頭を上げ させた。
 紗美はもちろんだが、紗美が見た水樹も涙でいっぱいだった。

「・・・バカ。ホントにバカなんだから。あんなにいい男を捨てるなんて」

 水樹は切なそうに言葉を紡ぐ。そして、少しにこやかに表情を緩める。

「・・・だから、おまえは大嫌いだよ」

 静かに、しっかり聞き取れる声で、水樹は紗美に言う。そして、二人見つめあうと、水樹は瞬間的に、紗美の頬をはたいていた。

「・・・・・っ!!」

 頬に痛みは感じなかった。だが、その分、紗美の心は痛かった。悲しそうな紗美の顔を見て、水樹は少し俯く。そして、紗美を睨み付ける。

「紗美なんて大っ嫌い!!・・・帰ろう、真紅!!」

 水樹はそう吐き捨てると、真紅のほうに向き直る。
 その、向き直る瞬間、水樹は紗美に少しだけ笑顔を向けた。紗美は錯覚かと思ったが、間違いなく、水樹は笑顔を向けていた。そして、声こそ発しなかっ たが、その唇は「ありがとう」と言っていた。そのありがとうが、誰でもない真紅のことに対してだと、紗美は感じた。恩を仇で返したが、一つだけ、真紅 と水樹が一緒になれたことだけは、紗美にとってなんとか、水樹に対して自分がすることの出来た、自傷行為に近い、恩返しだったかも知れないと紗美は思 えた。
 教室の入り口には、相変わらず微動だにしない、疫病神が立っていたが、真紅も水樹も、まったく無視して、教室を出て行く。男はなおも呆然と立ち尽く していた。

「・・・あんないい男を捨てただけじゃなくて、大切な人まで失って。私ってホントにバカなんだな」

 紗美は涙を流しながら、情けない自分を笑うしか出来なかった。涙はさっきよりも多く流れていた。


 翌朝。
 校門の近くで、紗美は見慣れた二人の姿を確認していた。水樹と真紅の姿だった。紗美は小走りに二人に駆け寄る。
 水樹はその足音を聞いて振り返ったが、それが紗美だとわかった途端、顔を背けると、真紅の手を引いてさっさと校門をくぐろうとした。だが、水樹の 握ったてを真紅はぎゅっと握り返し、だが水樹の引っ張る力には従わず、自分ペースで歩いていた。

「おはよう、真紅君」

「おはよう、紗美さん」

 紗美のほうから真紅に声をかけた。真紅はいつものように、何の変化もないように挨拶を交わしてくれた。

「おはようございます、水樹先輩」

 紗美は続けて、たぶん返答などはないとわかっていながら、だけどそうしたい気分で、水樹に挨拶をする。水樹は相変わらず、紗美のほうを向こうとも せず、真紅の手を握って、ぐいぐいと前進を促すように引っ張っていた。
 そんな様子に、真紅は紗美に対して、苦笑いをして見せた。
 そんな真紅の態度に救われた気が、紗美はしていた。そして、以前は嫌悪の対象として、忌み嫌うように名前を呼んでいた水樹が、今日はただ無視をして いるだけで、だけど忌み嫌うような言葉を発していないことに、どこか満足の行ったような表情を浮かべていた。


 この日、真紅のクラスでは、男子が真紅に対して恨めしそうな敵対心丸出しの表情で誰もが睨むような視線を送り、女子も真紅に対して、あんな女と一緒 なの?と言いたそうな感じで真紅を見つめていた。
 また、水樹のクラスでは、女子の誰もが、水樹に寄り真紅の心をつかんだ水樹に喜んだり、そんな水樹に嫉妬の念を抱いたりしていた。男子はあわよくば 真紅から水樹を奪おうとせんとした表情で、水樹に話しかけたりしていたが、水樹は一向に男子の話には付き合わず、自分は真紅一筋だと代弁するような態 度を取っていた。
 そんなあわただしい一日が過ぎ、水樹は真紅のクラスに行く。
 真紅のクラスでは、案の定と言う感じで、男子生徒が好機の目で水樹を見てきたが、その全ての視線を水樹は無視していた。女子からは強い嫉妬に似た視 線を水樹に送られていたが、やはりそれも全て無視して、意中の相手、真紅のそばに駆け寄る。

「真紅。帰ろう」

 水樹はそれだけ言い、うなずく真紅の手を取って、二人にとって少し居づらいその教室を後にした。

「・・・今日はすごかったよ、視線が痛いのなんのって」

「あはは、水樹もかぁ。俺もだよ。…俺の場合は男からの視線が痛かったけど…ま、それだけ水樹が魅力的ってことなんだろうね」

「それは私も一緒。まぁ、好意的な友達も居るから、そんな子たちからは良かったねって言われたけど、真紅に思いを寄せる子たちからは、睨まれまくっ た」

「しばらく、続きそうだね。この状況」

「ま、あきらめるしかないか、だって、こんないい男を独り占めしてるんだから」

「…何気に恥ずかしいよ、水樹」

「そう?いーじゃない、別に減るわけじゃないんだから、さ」

 二人はそんなことを言い合いながら、帰宅の徒についた。

 

    Angel’s Whispers 〜天使のささやき〜 Vol.1  −END−

 

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